北会津村誌 -372/534page

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三一、 両 堂 村

 1、両堂の由来 文化六年の風土記にみえるように、もと不動堂と太子堂が並んでいたので二堂村といったら しい。寛文中今の名に改めたとあるが、これは保科正之が来封し、寛文五年会津風土記を編さんする前後に、文 字の適合しないような村の名を相当改めているから、その際に両堂となったとみえる。
 不動堂は現存しているのでわかるが、もう一つの太子堂は、両堂寺ともいい、太子を祭っていたので、そうも 呼んだらしい。本尊の背に延文二年(一三五七)檀主小松金家住人法心、妙円二人の名が書付けてあったという から、南北朝時代で、北朝の年号を害いているところをみると、東北の北畠親房等を擁した一連たる勤王精神も うかがえ得るようにみえる。ここに真言の道場を開いていたようである。しかし、既に荒廃して久しく、延宝三 年(一六七五)に正式に廃寺になっている。その後に火災にあって太子の像を失ったのは惜しい。同時に不動の 本尊も焼けたのではないかと思うが、そのことは記録にも、伝承にもみえない。
 「会津旧事雑考に西堂寺を宝幢院と記す訛れり」とある宝幢院は、現在も古麻生にある如意山宝幢院のこと で、これと誤記したらしい。村人は不動堂の西につづく庵が太子堂跡で、再建できないままになっていると語る から、西堂が古麻生まで離れることは無理であるし、宝幢院に天子像を祭ったことのあるのも聞かない。

 2、大聖不動明王 日本三所の不動明王ともいい、今は新九月三日となったが、もとは旧八月三日が不動様の おひちで、その前夜を宵びちといってにぎわった。うたがい(うたかがい)の人々が集り、東の墓地のある河原 に大きな梨の木があったので、俗に梨の木河原と呼んでいたが、そこにかけあんどんをして老爺老婆が玄如節 の歌のかけあいを楽しんだ。これは夜を徹してこもり堂でもつづいた。祭の当日は会津の念仏踊が、北方・南方


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