北会津村誌 -374/534page

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 こもり堂前に全長約二・三二メートルほどの鉄が対になって立っている。刃の長さだけでも一・五五メートル ある。これは奉献したたくさんの劒を、明治二十八年八月三日と銘があるから、その頃まとめて、会津若松市材 木町の星野鋳物工場で鋳造したものである。「治工星野宗七 藤原重智」とみえる。
 御堂内の糸まりなども、今では民芸品になっているが、径三六センチもある大きなもので珍しい。

付 文化六年風土記より
    両    堂
 昔此村に不動堂と太子堂あり。因て二堂村と云。寛文中(一六六一〜一六七二)改て今の名とせり。府城の西南に当り、行程一 里十五町、家数十二軒、東西五十四間、南北十三間、四方田圃なり。東一町三十間、西二町、南一町十五間、共に小松村の界に至 る。其村は未申に当り四町三十間余、北二町二十四間、柏原村の界に至る。其村まで六町三十間。
 ○水利 思いぼり堰、下小松村の方より来り、田地の養水となり、柏原村の方に注ぐ。
 ○寺院 不動堂、境内東西十二間、南北十間、免除地。村北三十間余にあり、草創の年代詳ならず。不動長一尺八寸、座像古仏 なり。古木繁陰し、境地ものふりたり。府下千軒道福証寺是を司る。
 ○舌院 西堂寺跡、不動堂の西にあり、真言の道場にて本尊太子の背に延文二丁酉年(二二五七)三月十日檀主小松金家住人法 心妙円二人也と書付ありしと云。延宝三年(一六七五)本寺なきに因て廃せり。後太子の像も火災にかかり今はなし。旧事雑考に 西堂寺を宝幢院と記す訛れり。
 ○褒善 善右ヱ門、人となり忠実にして節倹を守り、家内昵く、村中にも親く、窮民を憐むこと大方ならず。毎年公納の頃に至 れば、日夜相謀て一村の労を我身一つに引うけて、貢物より作事の人夫出すことなど、聯も滞ることなきは、皆彼が風にならい、 教を守れるゆゑなり。春耕より秋収に至るまで、みづから拍子木を撃て田野をめぐり戒めければ、一村の者皆父母の如くに思いけ り。常に子弟を集て、我等飢寒の息なく、家族を養うこと、領主の厚き恵なれば、等閑に心得べからず。互に耕作の事をはげみ、


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