北会津村誌 -375/534page

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公納かくことなきを第一とすべし。其他作事の夫役など、時におくるべからずと戒めけり。されば自他共に感賞して其風に化しけ れば、安永元年(一七七二)褒賞して米を与えり。忠義者伊兵ヱ、享和元年(一八〇一)同上。

  三二、小牧村および四つ壇・松野・三本松

 1、村の起りと館の由来 明治十六年の記録までは下小松とあり、同二十二年の町村制施行には古館村小松と あるから、その間の同十九年頃、下がとれたかと思うが、慣用としてはその前後が明確でない。南の本郷町関山 奥に上小松という数軒の古い村があり、それに対して下小松といったとも伝えるが、これも明らかでない。
 新編会津風土記に下小松に館跡が三つあったとして、伝承を概説している。復元してみると、本丸が現在の小 学校の校舎と校庭を含めて三〇間四方、その西、道路を隔てて常徳寺があるが、寺院境内と墓地の一部を含めて 二八間四方、北には現在の多賀神社境内で東西二六間、南北一六間である。常徳寺墓地南縁の土堤跡、多賀神社 の西より北にかけての土堤がその名残りかと思われる。
 つぎの一つの館は、もう構造改善で崩されてしまうであろうが、村北に一〇〇メートルほど離れて土堤跡をた どって、ほぼ方形にみえるもの、東西三〇間、南北四大間とみえる。もう一つ村西に六〇間四方の館があったと 伝えている。
 この館の築造が村の発達と密接な関係があろうと思われるが、館主及び築造年代は多分に伝承的なもので、新 編風土記もまたその伝承によるので、これを明確にすることは容易でないが、いくらかその伝承に筋道をたてて 解説してみようと思う。
 風土記には延文の頃(一三五六〜一三六〇)小松弾正包家が築いたとある。室町の中頃で、下荒井の築城が元


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