北会津村誌 -378/534page
ここは旧館の三の丸の西北隅で、古くから稲荷神社は祭られていたものである。多賀神社は、新編風土記にみえ る、村の東北五町ばかりにあった感応神社を、明治二年十月十一日付で社殿改築の際多賀神社と改めたものであ る。
この多賀神社即ち感応神社の縁起伝承を書いた由来記があるが、これによると正和二年(一三一三)僧都の恵 心源信がこの地に来て、白雲中に白髪の男女二体が現れ、伊佐那幾、伊 佐那実の神霊は子安の二柱で、両部は大日如来の本地仏である。また観 音菩薩は稲荷の神霊で水火難よりまもり、安穏豊饒にして下さると告げ られて光明を放って雲中に入られた。それで村民が一刀三礼をもって三 体の像を刻み、感応三神大明神として祭るとある。明らかに神仏混淆の 仏教伝来の初期の信仰形態を示すものであるが、この正和三年となると 鎌倉時代の末期になり、館を築いた延文の頃より四〇年余さかのぼるこ とになる。或は築館の際、既に村があり、村民の信仰する神社があって それに縁起伝承が附されたものかも知れない。由来記には勧請は萬治三 年(一六六〇)八月十八日、それよりややおくれ延宝三年(一六七五) 小松稲荷として祭るとあるから、感応神社として社殿が建立されたのは 源信がこの地にきてから三〇〇年余もたっていることになる。明治二年 建替えの時の神官は大沼郡西方村郷社秤荷神社祠掌松本光時とあるがど ういう関係かよくわからない。