北会津村誌 -379/534page
この縁起による木彫三体は御神体として今に伝えている。男神の御丈四一センチ、女神三六センチ、もう一体は ほうそう神などとも呼んでいるが、座像で二六センチ、共にまさ目のよく通った檜材で、風雨にさらされたか素 朴の輪廓がうかがわれるのみである。
稲荷神社の縁起は芦名時代の館主松本源兵ヱの屋敷稲荷として信心していたとあるから、恐らく館を築く際祭 られたものと思われる。館の廃されてからは、この跡にできた御蔵番斎藤家が屋敷稲荷として祭を引きついでき た。
たまたまこの御蔵番斎藤の分家長兵ヱの子源七が会津藩主松平容保のお手廻り供として京都に行き、伏見稲荷 を信仰して「天官」という神号を得てきたとして、次の免許状を伝えている。奥州会津下小松
斎 藤 源 七
右依頼
天官正一位稲荷大明神
神号所申調如件
神祗管領長上家
公文所 印
文久三亥年(一八六三) 八月この神号を得てより屋敷稲荷は村人の信仰を高め、昭和四十年の多賀神社の遷座の際には双殿として、この稲 荷神社の位置に多賀神社を移した。そして多賀神社の旧姓地二反九畝歩は神饌田として確保している。