北会津村誌 -380/534page
この他境内には雷神社、若木神社、これは疱瘡神である。稲荷神社などの寄せ宮がある。 館の二の丸跡に東陽山常徳寺という曹洞宗寺院がある。山門わきには「不許萱酒入山門」といかめしく禅寺の 禁を示した文政二年(一八一九)の碑が建っている。
この開山は天正元年(一五七三)五月十八日と伝えるが、戦国時代が織田信長によって統一され、世は静まり 始めた時代、葦名の滅びたのはその一七年(一五八九)伊達政宗の侵攻によるが、この館跡に社地が設けられた ところをみると、既に館主は館を縮少するか、失われているかも知れない。なお寺院縁起には寛文九年(一六六 九)十月二十七日の再興のことが附されている。現在の本堂はさらにその次の安政元年(一五八四)の再建であ る。本尊は阿弥陀如来で、御丈五二センチ、左右に文珠・普賢の両菩薩を並べている。
もう一つ、古くから信仰を集めていたものに修験があった。現在の小学校の校庭の東縁辺にあった覚法院で、 風土記には感応神社の別当を勤めたとある。これは別項で述べるが、小松獅子舞の免許に阿部大和守、石河但馬 より弘化二年(一八四五)に出した文書がある。これには「大沼郡下小松村覚法院」とあり、当時獅子舞の管掌 もこの法印であったかと思われる。諸社の勧請録をみると、覚法院の「院舎再建修造人皇百十一代御光明院迎」 とある。これは一一〇代の御光明帝のことで、会津藩へ保科正之来封、社倉法などを整えた時代である。3、五輪・供養碑など 下小松は上荒井と共に旧鶴沼川扇状地の上流面の部落としては早く開けたところらし く、古いものがいろいろ散在している。風土記にも常徳寺境内に二基、村民の宅中に一基の五輪があり「古代の 物と見ゆれども、文字なく、土人相伝て小松殿の墓と云」ともみえている。館主の「小松弾正包家の墓なるや」 とあるが、勿論明らかでない。神社・寺院の整備などがあって、弁財天供養塔側の五輪なども崩れており、常徳 寺裏の墓地には住職の墓碑の間に小さいながら宝筐円塔などがみえる。多賀神社移転の際の供養碑、寄せ宮など