北会津村誌 -383/534page
心として役場や学校があり、発展を遂げてきたことがみえる。しかし 会津若松より高田へ通ずる主要交通路は、村の北を離れて走るので、 純農村としては幸いであるが、いくらか交通の利からは取り残された 感じにさえ見える。
付 文化六年風土記より
下小松村 小名、四壇、端村 松野
府城の西南に当り行程一里十五町、家数四十七軒、東西二町四十三間、南北三 町十間、四方田圃なり。東七町三十四間、本郡南青木組飯寺村の界に至る。其村 は寅に当り十六町、西五町五十九間、新在家村の界に至る。其村は戌に当り七町 二十間余、南一町五十間上荒井村の界に至る。其村は未に当り八町二十間余、北 六町十間、柏原村の界に至る。其村まで八町四十間、又巳の方八町二間、上米塚 村の界に至る。其村まで十一町三十間、中の方五町二十間、金屋村の界に至る。 其村まで十町三十間余、丑寅の方三町三十二間、両堂村の界に至る。其村まで四 町三十間。
○小名 四壇、本村より丑寅の方三町二十間余にあり、家数八軒、東西二十間 南北一町十五間、四方田圃なり。寛政十年(一七九八)に開けり。昔此辺に壇八つありしゆゑ、字を八壇と云。今其四を遺せるに 名けりと云 路傍の壇上に松樹あり、枝葉繁陰して数歩を庇う。極めて古木なり。端村、松野、本村より亥の方六町二十間余にあ り、家数十軒、東西一町七四軒、南北一町四十六間、四方田圃なり。
○水利 思いぼり堰、上米塚村の方より来り、田地の養水となり、両堂村の方に注ぐ。