北会津村誌 -384/534page
○倉廩 米倉二室、村中館跡にあり。一屋は社倉なり。一屋は本組の米を納む。
○神社 感応神社 境内東西二十二間、南北二町六間、免除地。村より丑寅の方五町計にあり、鎮座の始伝わらず、旧は社頭も 巨宏なりしとて拝殿の旧礎今に遺れり。幣殿、拝殿あり。別当覚法院、本山派の修験なり。其先を景莫と云。現在丈応は十二世の 孫なりとぞ。稲荷神社、境内一四間方免除地、村中館跡にあり。鎮座の初を知らず。村民の持なり。稲荷神社、境内東西二間、南 北四間免除地、端村松野にあり。鎮座の年代しらず。鳥居あり、村民の持なり。
○寺院 常徳寺、境内東西廿一間、南北三十三間年頁地、村中館蹟にあり。東陽山と号す。北青木村恵倫寺の末山曹洞宗なり。
開基詳ならず。天正年中(一五七三〜一五九一)宗瑞と云僧中興せり。古き位牌二あり。一は嶺松院秀巌公大禅門と記し、一は帰 真秀岩盛公大禅門霊之位と記せり。何人と云ことを伝えず。本尊弥陀客殿に安ず『)五輪二基、境内にあり。共に高二尺三寸、其別 近代のものにあらず。由ある人の墓と見ゆれども文字なければ知る能わず。又村民の宅中に一基の五輪あり。高二尺余、これも古 代の物と見ゆれども文字なし。土人相伝て小松殿の墓と云。小松弾正包家が墓なるにや。館跡の条下と照し見るべし。○古蹟 館跡三、一は村中にあり。本丸跡三十四間四方。二丸跡二十八間四方。三丸跡東西二十六間、南北十六間、延文の頃 (一三五六〜一三六〇)小松弾正包家築けりと云。其後平田総右ヱ門(諱を失う。)と云うもの住し、天正の頃(一五七三〜一五 九一)松本源兵ヱ(諱を伝えず)居しと云伝う。土居堀回れり。一は村より丑寅の方一町三十間にあり。東西三十間、南北四十六 間、今田圃となり土居の形遺れり。何人の住せしか詳ならず。一は村西にあり。一町余四方、土居堀の形遺れり。いつの頃にか佐 々木鴨之助某と云もの住せしとて、土人鴨之助館と称う。
○褒善 忠義者つち、此村の農民権太郎母なり。寛政四年(一七九二)米を与て賞せり。忠義者みよ、此村の農民荘太郎母なり 寛政七年(一七九五)同上。