北会津村誌 -388/534page

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この村のみで文化的に一異彩をもつ民俗などは、見当らないのが当然である。やはり、会津地方、城下町会津若 松市を中心とした文化圏とか、民俗圏に包含されていることを承知して、記述しておかなければならないと思 う。或はそのために、旧版若松市誌、新版会津高田町誌などと、あまり重複するような資料は、いくらか簡素に 扱うほかないかと思う。

  二、村の形態と縁族、地縁集団

 1、村の概念 明治初年に市町村制が布かれ、村が最下部の政治組織の自治体の名称に用いられるようになっ て、村の概念は、この方面にも通称されて混じてきている。もともとは、むらという言葉が、むらがるなどと通 じるように、何軒かが集団して、村の形も、生活も整えているものの名であったと思われる。幕末まで通称して きた村が、その概念によくあうようである。ここで村というのは、その生活にあらわれた集団の、古くよりの単 位を意味していることにし、政治体の場合は、特に北会津村というような場合を除いては、注釈を入れておこう と思う。

 自然的に発達した村というのは、学問の系列などからは充分考えられるが、現在の村の発達を調べてみると、 案外見当らない。古くは野山を開墾して一戸が住みつき、次々と分家を出して、現在のような、二〇戸なり、三 〇戸の大きな村になったと考え易いが、多くの場合は、そうではなく、最初より数戸が共同して開墾するなりし て、住みついたものが多いようである。永く世襲の肝煎役を勤めた家などが、古くからの館とよぶ屋敷などに住 みついていて、その家が開拓の本家筋に当ると思いこまれている場合が少なくないが、近世の鶴沼川畔の新田部 落にせよ、最初、開拓して住みつく時は、数戸の場合が多く、最初より協力、共同生活の社会集団、即ち村とし


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