北会津村誌 -391/534page

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が、昔「わらじぬぎの分家」とかいった、血縁でない分家、これは奉公などしていた人が独立させてもらう場合 で、「奉公人の分家」などと呼ぶ場合もある。商家でいうと「のれん分け」に類するもので、名字の異なる場合 が多い。しかし、名字が異なって、分家といい伝えているから、必ずそうなるかというと、家の盛衰が、ついに 廃家・潰家になって、その名字はそのままにして、屋敷を継いで再興した場合なども多かったから、よく、その よってきたところを調べないと、明確ではない。

 この本家・分家の集団意識とか、集団生活力が強いほど、封建性が強いなどともいわれるが、北会津村は、決 して、その無理なほどの強さは、あまり見られない。例えば墓地が本家のを中心としてある。これは分家のなり たちから当然であるが、本家のをまず詣でてから自分の家の墓を詣でるほどの遺風は殆どみない。本家の氏神な り、檀家寺が成長して部落のものになった例はいくつかみられるようであるが、その多くは不明確になっている し、本家の屋敷神を分家が必ず参る。本家のを参らぬうちは、良分の家のものでも、分家であるから、順序をま ちがえてはならないというほどの意識はないようである。まして、基本的人権になっている選挙権の行使の場 合、本家の鼻息きをうかごうなどの風は全く見られない。特に屋敷が近い場合、地縁の密接さも手伝って、相互 援助の生活が、やや強いようにみえる。

 3、地縁集団 むらは一つの地縁集団ではあるが、これが二〇戸、三〇戸と大きくなった場合、社会生活の集 団単位として、やや大き過ぎる場合が多い。この場合はさらに幾つかの組に分けて、真渡では東住・西住、麻生 などでは東衆・西衆、中荒井では単に番号で一組から五組に分けている。第二次世界大戦中、上意を下に達する 組織として、隣組制度ができたことがある。この単位は一一〜一二戸であったが、大都市では全く物珍しい新た な制度であったが、地方の農山村には、既に旧幕時代には五人組制度があり、明治後も、その五人組を母体とし


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