北会津村誌 -397/534page
十二年子供中とあり、天神講組合一六人、最年長者を尊長といい、宿 持廻り、酒一二銭、砂糖九銭、油揚一〇銭、しおびき三〇銭、醤油一 升一七銭などとあり、酒は、子供たちであるが、やはり神酒として供 えたものらしい。明治三十四年十一月八日の記録などには「学校は休 むべし」などとあるから、まだ学校教育より、部落の慣行的行事の方 が、信仰も含んでいて、強かったではないかと思われる。
信仰の講組織はたくさんあって、その中には火難よけの下野にある 古峯神社へ代参を送った代参講のようなものから、伊勢講、飯豊講な どの同行者講があったり、農業生産と一体をなして、春秋二回馬の手 入れをした馬頭観音講、これは、村端れの草原などに、馬のつくらい 場などがあって、伯楽を呼んで馬の手入れをして、終って、重箱くら い持寄って馬頭観音を祭った講組織であった。
下荒井村にたないけ組のあったことを調査したことがあるが、これ は他の部落にもぽつぽつあった。春早くたないけをかいほして、泥をあげ、たねがますといった小さいかますに 種籾を入れて発芽を早めるために、池にひたすが、たないけは各屋敷に必ずあるとも限らないから、もより三、 四軒で共同で用い、いくらか御苦労酒のようにして、共同飲食などをしていた。農業技術が変って、種籾を永く 池にひたすこともなくなって、消失した組織である。
しかし部落とか、組の社会生活、相互援助として、実生活に最も密接なものは葬式の際の援助である。婚礼、