北会津村誌 -403/534page

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現在の若い者などからはむしろ奇異にも感じられる。

 あみ笠は、春のくろ切り、田うない頃から田植の早乙女姿までの、野良の美装としても若い娘たちの服装とし ては目立ち、現在も失われてはいない。

 中味の服装の急激な変化につれて、雪国の冬の防寒具も、古いものは殆ど失われようとしている。毛布を二つ 折りにしたかくまきは、まだ完全には失われていない。吹雪の道などでは最も適するものかも知れない。しかし 頭にかむるおこそ、或はおこそ頭布の類はあまり見かけなくなっている。男は洋服になって、オーバを着、和服 の上につけるトンビとか、二重廻しなどの防寒具は若い者からは殆ど失われかけている。基本としては男・女と もに洋装の普及が、かむりもの、はきもの、防寒具などを一変してきており、材料の方からみても、ゴム、ビニ ールなどの普及が、このような変化をもたらしているものと思われる。

 4、機織りと染料 第二次世界大戦の半ば過ぎから、戦後しばらくの間、純綿・純米などの言葉が流行し、む しろ、まじりけ、かての含まれるのが常態になって、この辺の農家でも、ぽつぽつ綿を植えて、綿打ち屋にやっ て、くだぬきにし、機を織る風景が見受けられた。これは全く衣類に窮乏した結果の自給現象であったが、明治 の半ば頃まで、実は綿も作り、老婆などが糸をつむいでいた。この頃まで、機織りは、嫁入り前の、一人前の当 然の修業のようにさえ考えられていた。くだぬき綿が市販されるようになって、綿作りは衰えたが、まだ布団綿 などとして栽培する家があった。まだはたしとよぶ機織機械は、破却しないでそのままか、解体して保存してい る家がある。そして、時折、老婆がぼろ布をさいたり、毛糸などをよって、女の野良帯の類や、こたつがけの類 を織りかねない。これも全く機織りの終末現象として、写真にでも写して記録として保存してみるほかないかも 知れない。


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