北会津村誌 -402/534page
もいわれている。日本の文化の多くは北漸性があって、会津地方などへは、関東や越後地方から推移してきたよ うにいわれているが、もんぺや、このふたはば手拭は、どうやら北の寒い地方の、ふろしきとか、ふろしきぽっ ちのような冠り物から、手拭を二筋ぬい合せて用いる工夫をこらしたものかとも思われて、非常に便利でもある し、美装からもよく、貴重な野良の冠り物である。
3、履きもの、雨具、防寒具など 大正の中頃から、最初は生ゴムようのもので、冷えると固くなる、飴色よ うのものであったが、逐次改良されて、履物、特に雪国としての冬のはきものは、一変してしまったといってよ い。わらじ、それにつまをかけたおそふきわらじ、これを小学生がはいて登校し、わらじ乾し場があって、混雑 したり、燃えたりした難渋さは、現在では想像さえできないほどである。げんべ、わらぐつ、わらの長靴の類は まだ近年までみられた。特に雪踏みさんだらの類は現在も用いられている。雪踏み人足などが出て、村端れから 学校まで、雪踏みをしてくれた後につづいて、小学生は、けつと、まんとをかむって、行列をつくって登校した。 この履物がほぼ全部ゴム長靴に変ってきている。
野良にはいたあしだかぞうりは、あしなか、即ち足の半ばまでの履物の足半からでた名称であろうが、履物の 最も古い形を残しているもので珍しい。この草履までゴム草履になろうとしている。
野良の雨具は、みの、かさであるが、すげ笠のほかに、陽をよけるあみ笠などが、現在もなお、ビニールの冠 り物におされながらもなお相当用いられている。みのは藁細工として、わらじなどと共に自家製であった。雨具 としてばかりでなく、荷物を背負う背、肩当て用にもしていた。リヤカーが普及し、現在オート三輪車なども多 くなって、荷負いみので背負う風景も、殆ど野良から失われようとしている。それでも老婆などは、野良から、 何か背に負わないと、申し訳ないように習慣づけられて、リヤカーの後から、背負うて帰る姿など見受けるのは、