北会津村誌 -411/534page
三、住 家
1、屋敷構え 会津盆地は集村をなしているから、散村地域の屋敷の周囲 に、主に家添えの耕地をもっているほどの、古くからの豪族屋敷というほどの ものは見受けない。しかし寛文五年の書上げや、文化六年の新編会津風土記 などをみると、下荒井の城は別として、館とよぶものが数多くある。中荒井村 の館は東西二〇間余、南北一町余とあるから、四反以上の館であったと思わ れる。中荒井組郷頭を勤めた小森家の宅地は、現在もほぼ四反歩あるそうで あるから、このくらいが、最大の屋敷規模であったかと思われる。岩手県中 部などにみられる、一町五、六反にも及ぶ、一戸の生活をほぼ支え得る農業 適性規模面積に匹敵するほどのものはなく、やはり、主には中世以後の開拓 による屋敷どりの集村とみられる。分家の数も、古くから一〇数軒以上に及 ぶというほどのものも見つからない。
館に住みついたのは、やはり中世頃と思われるが、それより連綿として代 を重ねて今に至るというのも、農家には盛衰が激しかったから、案外少ない ではないかと思う。その点系図書などからのみでは考察の困難な場合もあ る。
しかし、住み主に変遷があっても、屋敷の規模なり、築構の模様を伝えて