北会津村誌 -420/534page

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は、すだれに、戸障子と、薄暗かったが、ガラス窓がはいり、電灯をともすなどの変化もともなって、部屋を細 分化してきたようである。雪の多い寒国であるのに、雨戸がなく、障子戸だけで過してきた慣行は珍しい。

 炉はいろり、ゆるいなどともいっているが、いろりは居るという言葉と関係があるらしく、家族が集ってだん らんする場所になっていた。そのために、座席が定まっていて、中じきりの上に相当する炉の正面を横座といっ ていた。これは主人の座る場所で、主人以外は坊主か神主くらいしか座らない。「横座に座るなら、米を買え」 などともいっていた。長男などは無意識に座っても、叔父や婿などは、決して座れないほどの権威のある座で、 民俗学ではこれを「横座の権威」などともいっているほどである。北会津村などでも、旧習を固持する、所謂か たい家では、この座席の権威は相当強かったようである。

 その北裏が、かか座、その向いが客座であるが、そう呼んでいる人もないことはないがあまり聞かない。ただ 横座の向いを木じりとは、よくいっていた。客座の側にはたきぎ置き場があり、まき割り台と、ちゅうながあっ て、木を割っては、木尻の方から焚いていた。

 このいろりが、にわの床をあげる機会に、にわに移って、かっての炉、たきぎ置き場をとりかたつけてしまっ た家が多い。これは家族の住いの座席も崩して、家族を民主的にする一方、長幼の席を崩すことにもなってい る。

 にわの流し前とよぶ水屋は早くから板の間にしている家も多かったが、にわは、小屋を別棟につくる前は農作 業場でもあったので、土間のままにしておくか、莚など敷いておいた所が多い。小屋が別棟になると、とんぼぐ ちという、下駄ぬぎ場の一部のみ土間にしておいて床をあげ、いろりを、にわの釜場に並べてつくるようになっ た。それで家族の団らんの場も自づとにわに移っているが、主人はなかなか、にわには下ろうとしないで、かっ


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