北会津村誌 -424/534page
耕耘機がはいると、その普及は激しく、馬は農家より殆ど姿を消し、家屋の間取りの中にも、大きな分野を占め た馬小屋も、その処置にも困る有様である。
あらくれかき、あげしろかきなども、専ら馬によったが、これも戦後の耕耘機に変っている。
5、こやしふり 肥料の主なものは堆肥で、昔はかっちきかりなどといって、若草なども刈って田圃にまいた。 人糞尿をまくのを、こやしふり、やしないかけなどいうが、若松近郊で、野菜栽培のためにも、多くのこやしを あげてきて腐熟させておき、ふり桶にかついで、こえびしゃくでふりまいた。やしないは作物を養う肥料の意味 である。大正の中頃から化学肥料がぽつぽつはいり、まめたま、あぶら粕などといった肥料まで、逐次追出して 辛うじて、堆肥のみ、屋敷の隅のこえ積場に屋根をかけたり、下をコンクリート張りにしたりして、改良を加え て維持している。野良の枠積みのようなものも普及してきた。
6、田植え 直蒔きも日本の各地で試みられているが、この地方では、総べてが、これだけは手先で植付け ている。ただ植える寸法をはかる方法だけは変化している。やたら植えという、寸法を適当にして、乱植えをし たのが、定規をあてるようになって、定板ができた。つぎは寸法を定めたすじ立て定規を使うようになってい る。
田植えは雪の上で予祝祈願をするほど、農業の基本で、これにからんだ信仰的行事もたくさん引継がれてい る。田植えはまた、殆ど野良の晴れ着にも近いものをつけた、早乙女の野良の労働の晴れの場でもあったようで ある。用水と生育の関係もあって、短日月に植え終ろうとし、労働力が集中するから、他地方から、たくさんの 早乙女を傭ってくる必要があった。
田植えの終った日には馬鍬洗いという祝いをする。さ苗、馬鍬、えんぶりなどに餅を搗いて供える。これを他