北会津村誌 -430/534page

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そうも呼ばれていた。

 これを運び出すのに、昔は殆ど人の背に背負うか、天秤で肩にかついでいたから、大川の渡しが障害となり、 各所に船渡し場のようなものがあった。大八車ができ、架橋の必要にせまられ、現在は鉄橋を除いては、蟹川橋 と高田橋の二ヵ所に限定されたが、リヤカーは、やがてオート三輪車へと発達して、共同出荷・出荷集配などの 組織と相待って、蔬菜の搬出を容易にしている。

 市場は若松のみにとどまらず、坂下町・高田町・本郷町へも出荷された。特に坂下町は奥会津への門戸で、渓 口市場集落の特色を持ち、節により種類によっては、若松よりも値が高いこともあって、下荒井より以北の村々 では、その方面への出荷も目立った。現在は郡山方面や、さらに東京方面へも、交通・運輸機関の発達と共に進 出しているものがある。

 2、蔬菜の種類と速成栽培、扇状地の表土の厚さ、土性などにもより、各村々に、いくらか蔬菜栽培の特色が みえる。中里・石原方面に里芋、麻生方面にねぎ、瓜、西瓜などは北会津西半の村々、これは専ら出荷距離、即 ち若松に朝早く運んで帰り、その日の予定の仕事にかかり得る時間をみこんで、種類を選ぶなどのこともあった ようである。

 特にねぎの栽培は、冬季の出荷にも適するので、多く栽培されている。その一因として、扇状地末端の清水の 湧出が、冬の洗滌に、水の温度が高いなどの好条件がつくようである。

 つぎに、古くから蔬菜は、はしり、初物といって、少しでも季節に先がけることが、値が高くて有利であると 考えられ、その方面の苦労を重ねてきたようである。そのためには、昔は温床と、苗床における移植を丁寧にや って、所謂集約農業の高度な園芸栽培的なものを、早くから行なってきた地域である。


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