北会津村誌 -439/534page
貞享二年(一六八五)の中荒井組風俗帳にも、うぶたて、七日目の雪院参り、男は五〇日目、女は五十一日目 の氏神参り、二〇日目の喰初めなどのことがみえていて、いくらかは薄れているものの、三〇〇年間以上も、 生れてくる子供のよく成長するようにとの祈願は、一貫して変っていないようにみえる。
この中でも、昔よりうぶたては大切な行事で、昔は麻のきれでつくったえなぎんを着せたとあるが、今も七日 目くらいに産婆や近親者を招いで、木綿のえなぎを着せて、お祝をする。うぶたては、お産に立ちあわれた神様 のお帰りになる日などともいって、うぶたて飯は高盛飯にもれなどいって感謝をこめていた。この日は村々によ り、家々によっても、必ずしも一致しない。
せっちん参りは、もう殆ど行なわない家も見受けるようになった。もとは子供のうぶ毛に銭と米などを、ひね り紙にして、橋をわたらないで、三軒のせっちんに参るとよいなどといっていた。子供の健康に育つようにとの 祈願であるが、死亡率の最も高いのは消化不良であったし、橋を渡らない三軒のなどというのは、眼にのめがで きた時、近所の協力を仰ぐ意味で、橋を渡らないで七軒から食べ物を貰って食べるとよい、それでめぼいと、も のもらいなどともいったと同じく、近隣の協力を得て子供を育てようとする祈願の名残のようにみえる。
2、年祝い 氏神参り、喰いそめなどで、満一ヵ年の誕生を迎えると、一升餅を背負わせて、立ち歩けると、 ころばすなどといっているが、現在はあまり行なっているらしくも見えない。
つぎは成長の折目についての年初いであるが、一般には、男は三、七、四二、六一、八八歳で、女は三、七、 一九、三三、八八歳などを厄年と考えている。七歳の時の七草の宮参りは、都会の着飾る盛装の風が田舎にも浸 透し始めているようにみえる。最も大切なのは男の四二、女の三三で、石原などでも、大正時代は村全部を招い で厄年払いのお祝を行なっていた。真渡などでも、もとは三三と四二、六一の年祝いの人は、村中を招いで大酒