北会津村誌 -440/534page

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盛りをしたそうである。既に影は薄くなってきていたが、第二次世界大戦と敗戦の困窮時代に、殆ど完全に失わ れている観がある。せめても村の春会議の席か百万遍などに、年祝いの人は酒を買うとかで、名残を止めている のがある。

 昔武士は一五歳が元服で、農村では、これを行なわなかったが、若連中の仲間入りなどを、この年令に達する と行なっていた村があった。

 現在六一の還暦、七七の喜寿、八八の米寿などには、子供・孫たちが内祝をするなどのことを聞くが、村人を 招待することなどは、全く稀になっているようである。

  二、婚姻習俗

 1、男女の交際と部落婚の名残 奥会津の山村にはまだ部落同志で結婚する習俗を部厚くもっており、三々九 度の杯ごとさえもたないところがあるが、会津盆地の中央の村々では、早くからその風習が薄れてしまって、村 内での結婚を何かなれ合いか、政略婚のように見たがるようにさえ思われた。

 男女の交際は盆踊か、祭礼の前夜のよいびちを追って歩く、所謂よびちおい、または小正月などには、部落内 では、比較的ゆるやかに認められる、特定の、神ごとに似た日があったようにもみられる。これに対して他部落 の若者などが、自分の村の娘だちに手を出そうものなら、若連中か、青年会で警戒する風があった。やはり昔は 部落婚の行なわれた名残のようにさえみられる。

 比較的会津盆地での、部落婚の意識の早く失われたのは、保科正之公以来の松平藩の藩政策などもあったよう に思われる。その反面、早くから家柄縁組ともいうべき、例えば俗に肝煎縁組などともいわれた肝煎同志、その


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