北会津村誌 -443/534page

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自動車の行列に変ったのは一異彩である。

 嫁の荷物のたんす、ながもち送りも、村の若者が頼まれて、長持かつぎに当り、ゆき杖をついで、途中所望さ れるとのど自慢の長持歌をうたって、祝いのいせいがよかった。長持歌の「蝶よ花よとよ、育てたこの娘、今は なあ、他人にくれてやるだよ」などにはある哀愁もおびて感じられる。実家と婚家の中間の適当な場所で受取り 渡しの杯ごとなどをしていた風も、大戦前後から、影が薄くなった。第一長持を持ち歩かなくなり、たんすなど も自動車で運ぶか、家具商から婚家へ直接送りとどけるというようにまでなってきている。

 嫁は一度仲宿というのに着いて、おてのくぼ餅などという、きなこ餅で腹ごしらいをして婚家の式場にのぞん でいたが、これも座敷などを仲宿として、簡易化しているのを見受ける。

 嫁が婚家にはいる時はしもとんぼ或は勝手口から、にわ、台所を通って、祖先の仏壇におがみ、かってに座っ て綿帽子をとるもの、婿は座敷からはいるなどの風は、まだ行なっている。石原などでは、仏壇におがませない 家もあるという。

 三々九度の杯ごとには、平列と対座の両方があるが、仲人が中央に並び、その両側に平列に座る例が多い。結 びの杯ごとが済むと、つぎは親子杯を交すが、これは殆ど、どこの村でも行なっているようである。

 部落婚に対する、他部落からの入婚に対する、若者の反抗的行事ともみられる水祝い、泥祝いのような行事は、 もう盆地の村々にはみえなくなった。ただ花嫁見たさからであろうが、障子に穴をあけたのぞきみなどはある。 それに対していくらかの祝儀酒を出す家などもあった。家柄の家で花婿に上下を着せる風なども残っていたが、 名字・帯刀・上下などを許された家柄誇示の風であったものと思う。

 盆地の村々では、部落婚の遺風は殆ど意味もわからなくなっているが、見参で見送ってきた叔母たちとの名残


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