北会津村誌 -449/534page
ゆく。これを節礼などというのは、言葉だけでなく、心厚い、なつかしい意味も内容も含んでいるようである。
節の最も大きなのはやはり節分で、次の日が立春であるから、今の太陽暦の上からも、明確な節日であるわけ である。これを事実上の一年の境目と考えている人も多い。豆蒔きの行事は全国に行なわれ、近年は何か有名な 寺社か、芸能人、果ては政治家などの宣伝の年中行事のように、内容がずれているようであるが、もともとは、 まだ農家で行なっているように「福は内、鬼は外」と呼んで、節の折目を意識し、来る年の無事を祈願したもの と思われる。蒔いた豆を月の数だけ並べた、月別の天気占いなどは、今は全く児戯に等しいようにも思われる が、やはりその年の豊年予祝の意味が充分含まれていたように思われる。
十二月の暮に搗く餅を節餅と呼んでいる人がある。一年の終りの節の意であろうが、九日の餅は縁起が悪いと いって、二十九日に搗かないで、二十八日に搗くなども、縁起には祈願をこめ、来る新しい年の幸福さを予祝し ていることがうかがわれる。
正月にはよく乞食が物貰いにきた。貞享二年の風俗帳にも、「穢多下春田打、穢多福吉蚕種かぞえという者廻 り歩く」とある。近年まで万歳、七福神、早乙女の舞込みなどが訪れてきた。これを単に物貴い、乞食としてい やしい者に思いこむようになって、貰い高も少なくなり、来る人もなくなってきたが、これを節貰いなどといっ て、他の乞食とはちがった、年頭予祝の意味を含めて、多少にかかわらず、多くの家では、節貰いだけにはくれ てやるものにしていたのは、やはり節目の意識があったためと思われる。
節日にはお日待を行なったとある。日待供養碑などがあちこちに立っている。これは民間信仰の項で詳述する が、もう失われてしまったかと思っていたら、昭和四十二年三月十日に金屋の旧肝煎長谷川徹宅を訪ねたら、舟 田太夫がお日待の祈禱を行なっているところであった。春の三月十日と、秋の十月十日の金比羅様の命日のお日