北会津村誌 -455/534page
近く、それ以上も、豊作予祝の習俗として引きついできた、尊い、敬 虔な祈願の面影がうかがわれる。こんな心をこめたいい行事を、物真 似だからと、無雑作に投げ棄てる農民の心理・習俗は、果して進歩と いい得るかどうか。
さいのかみは、会津全円にまだ広く残っている火祭りであるが、小 正月の十五日、その宵の前夜、時には翌十六日に行なう村もある。み ちの神、即ち道祖神祭で、悪病が村にはいってこないようにとの祈願 で、村端れの道路ばたで行なうところが多い。御山方面に、近年、そ れも戦後まで、悪病神を藁人形でつくって、一緒に焼いていたのがあ った。宮袋の旧道の北の入口に、道祖神が祭ってあるが、道路が改修 されて、さらにその新道の側に新しい道祖神の標柱が立っている。
風俗帳に、小正月には子供が繩をひいて、通りの者から紙を貰い、 その紙で藁人形を切り「さいのかみの勧進」といって、さいのかみを つくって焼いたとあるから、昔は厄落しなどの意味も含めて、男は四 二、女は三三で、夕方宮参りをし、男はふんどし、女は古い火吹き竹を闇の中に投げたという。新鶴村辺で聞い た行事の名残は充分残っていたのかと思う。新鶴村ではこれを十四日といい、中荒井組風俗帳には小正月十五日 の行事として書上げてある。風俗帳にはなりきぜめをまじないといってこれも十五日、そうとめ、或は子供そう とめ、又なとりともいったという。家毎に踊って歩いて、餅・団子などを祝いとして貰って歩いたというのは北