北会津村誌 -456/534page
会津村より失せて久しいと思うが、昭和の初期、磐城の漁村豊間などでは珍しく見受けた。
この小正月を女のとしとりという地方はひろいが、或はこれが一年の折目であろうと考えられるのは、これら の行事に、子供が福をもって各家に来訪したり、厄を払ってくれたり、豊年の予祝などの行事が重なっているこ とである。
三、豊年予祝と収穫感謝
田の神の送仰など 既に前年の十二月から田植祭の豊年予祝に類する行事を行なっている村が、中通り地方な どにはあるが、ここでは小正月の今和泉の田植の物真似が残っているのは貴重なことで、子供そうとめは既にな く、佐布川の高田お田植祭が辛うじてその名残を止めているに過ぎない。
しかし細かに拾ってみると、正月二日の仕事のしぞめに、こなわないや、馬のはよう繩ないなども、つい先頃 まで物真似としてでもつくるものとしていたし、節分の豆まき、年占いなどにも、その予祝、祈願のあとは充分 みられる。
二月八日は疫病神がお通りになるからなどと、目かご、もみどうしを竿にさして屋根にかけておいたりする。 これを二月七日の早朝にかける村もある。そして、この晩は「神様がお通りになるからな」と、子供にいいきか せて、家の内中ひっそりとしていたことなどを記憶している古老はまだ多い。この日をこと始め、或は八日講など を行なう村も多い。もう一回、年末十二月八日、これを十二月七日の早朝又は十一月八日にするという村もある が、新旧、一ヵ月後れなどで混じているのかも知れない。やはり目かごを屋根にたてかけている。民俗学の発達 によって、全国の資料が整ってきてわかってきたことであるが、目がたくさんあって、疫病が驚いておはいりに