北会津村誌 -495/534page

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てて、蟹川のほとりで老翁に会い、「高野山よそにはあらじ下荒井 三鈷の松ののりの朝風」の一首を与えられ たというのは、求道信仰の真髄をさとされたものである。

 2、鼻取り地蔵 宮袋の心宮山光明院本休寺の鼻取り地蔵の話は、田園における地蔵信仰の一つで、福島県に はいわき市四つ倉町長友に国の重要文化財になっている有名な地蔵に、同じ伝説がついていて、世に広く紹介さ れている。

 この宮袋のものも、具体的に伝説の要素を充分備えていて貴重なものである。昔岩淵の家の者が(現戸主岩淵 トイ)千刈田の北端で代かきをしようとしたが、はなどりが頼めないので困っていた。そこへ子供が現われて手 伝ってくれて、大変はかいった。御礼に招こうとしたら、何時か子供の姿は見えなくなり、近所の田の端に、地 蔵様が泥まみれになって横になっていた。それでこの地蔵様が手伝って下さったかと、丁寧に洗いきよめて宅地 の西南隅に祭り、六月二十四日を祭日として供養していた。後に寺院に納めたのが、今寺に安置されている地蔵 様であるという。その千刈田の北端を今にはなどり河原といっている。

 3、百騎沼 本田・鷺林・下荒井の間に、清水の湧出る大湿地帯がある。現在その殆どは埋まって小川が流 れ、流域の葦谷地が昔の面影を残しているに過ぎない。ここで昔戦争があって、月の夜に沼の面の光るのを蕎麦 の花と誤って馬で駈け入り、兵百騎ほどが溺れて死んだことがある。それで百騎沼という。今も沼跡から鎧の袖 か草摺りが発見されることがあるという。

 これは風土記や「会津旧事雑考」にものっているが、時を貞和四年(一三四八)の小松合戦のこととし、小松 の城を攻めようとして、本田の一盃館(今の菅原神社)により、夜を待って襲撃した時の出来事であると、史実 としての裏付けをしようとしている。


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