北会津村誌 -503/534page

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 小松獅子舞の来由としても、天竺・唐より伝えられ「天照大神悪魔を払うものなりとて、七つの宝に獅子頭を 天下し給ひて、天照大神の社に納め云々」ということがみえ、「獅子に羽が生えること不忠義なるよと、ふしん ありける時に、羽生いたる由来は、それ摩訶陀国の獅子なれば、鳳など鳥を祭りけるに、姿は鳥にて心は獅子な り。かようの子細に候えば、頭に羽が生えて、羽をさしたりと」となどあるが、これには明らかに三匹獅子の伝 承と、中国より渡来したライオン系の獅子が、大神宮に祭られた一匹の神楽獅子になっていったこととの、混淆 があるようにみられる。

 つぎにまた会津獅子舞起源以前の歴史として約九〇〇年前、源頼義・義家親子が、陸奥の安部氏と出羽の清原 氏を討った時、士卒の死を弔い、士気を鼓舞するために獅子舞を舞わしめたとか、寛永二十年保科正之信州高遠 より、出羽の最上を経て会津に移る際、勇壮美麗な、たえなる笛・太鼓のついた獅子舞ではいってきたとか伝え ているのは、恐らく単なる伝承であろうと思う。

 福島県下にはこの三匹獅子舞の系統が非常に多く、恐らく一五〇などは遙かに越すと思われる。その多くは関 東からの流れの系統であることがわかる。特に粟生沢・高野の獅子舞は、現在もその古い舞系統をあまり崩さな いでもっている。(福島県史民俗 I、民俗芸能○東北民謡集福島県)

 会津には下柴の獅子舞が関東より伝えられていて、これを天寧に伝授したこともわかっている。恐らくは徳川 の中頃かに、東北に盛んに普及したことがあるではないかと思われる。その際獅子舞の縁起伝承も一緒に持ちこ まれて、それぞれの村に、如何にも、その直系が流れているようになったものかと思う。舞い系統としても、神 楽獅子系統とははっきり区別しておくのがよい。

 会津では、どうしてこれを彼岸獅子と呼ぶようになったかはよくわからない。松平藩の庇護のあったことはあ


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