北会津村誌 -504/534page

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り、祖先崇拝などから、特に彼岸に、城下町に出て舞うことを許したための名称かも知れない。弘化二年(一八 四五)九月三十一日付の「獅子舞神日下御免の事」という、阿部大和守・石河但馬よりもらった「大沼郡下小松 村覚法院」宛の免状も伝えられている。

 ただ小松獅子が一つのはっきりした誇りをもっているのは、戊辰戦争の際、日光街道の田島口を護っていた国 家老山川大蔵(後の陸軍少将山川浩で、当時二十四歳)の一隊が、既 に重囲に落ちていた鶴ガ城にはいるのに困っていた時、包囲を破る一 策として重左ヱ門・孫左ヱ門等が決死の獅子舞を組識して、「通り囃 子」を奏しながら、獅子舞組を先頭にして、見事敵陣を突破し、一兵 も損じることがなかったということである。

小松獅子が通りばやしを奏して、常徳寺にねりこむ
小松獅子が通りばやしを奏して、常徳寺にねりこむ

 明治五年旧二月十七日、松平容保がその功をめでて小松の獅子舞を 特に招じて御覧になっているが、その時の獅子太夫の先達名が残って いる。
 笛 高木金三郎、高野茂吉
 太鼓 高野長太郎、藤田長太郎、大竹小太郎、渡部藤吉
 獅子 蓮沼千太郎、木金三郎、高野茂吉
 弓  藤田与次郎
しかしこの由緒ある獅子舞も明治の終り頃ついに中絶した。これを惜 しんで大正十五年復興、戊辰戦争後六〇年目に当る昭和二年、鶴ガ城


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