北会津村誌 -517/534page

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一五八〇 天正 八年 郡奉行所を中荒井、戸の口、小荒井、野尻の四ヵ所におく。
一五八一 天正 九年 荒井万五郎安土城に行って信長に謁する。
一五八九 天正十七年 下荒井の宝寿院、伊達政宗来攻の兵火にかかり、後に宝順ここに移ると伝える。
〃    〃 下荒井の覚蔵院に宥雄が来て住む。
〃    〃 葦名氏滅ぶ、下荒井蓮華寺の末寺福聚山養泉院を、宥寛が田山村に移す。
館の観音も伊達の兵火にかかる。
一五九〇 天正十八年 小池貞道、郷士米塚又吉の食客となって来任後に中新田を開く。
〃    〃 豊臣秀吉会津に来るという。蒲生氏郷会津へ封じると若松城と改む。
〃    〃 蒲生氏郷蓮華寺十三世宥明に再び飯豊山の道路を開さくさせる。
一五九二 天正十九年 今和泉長泉寺を豪円草創すると伝える。
一五九二〜九五 文禄 中 下野の永福寺に頼円住む。
一五九三 文禄 二年 秀吉会津領検地、一回七十三万五千石、再検地九二万石。
一五九四 文禄 三年 宮袋本休寺に空鏡住む。
一五九五 文禄 四年 氏郷京都に甍ずる。
〃    〃 蒲生氏蓮華寺宥明の功を認め、飯豊山一の戸村薬師寺の別当とする。
一五九六〜一六一三 慶長の頃 金屋願行寺に円寿住む。
一五九七 慶長 二年 鷺林延命山西福寺、地頭荒川大炊介某が創立。
宥興が住み後に宥宝が住む。五人組の高札できる。
一五九八 慶長 三年 蒲生秀行宇都宮へ、上杉景勝会津へ来封、大割元、小割元の制をおく。


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