わたしたちのふるさと 金山町-078/104page

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〈木冷ぜき〉
(1)木冷ぜきができるまで
人々の願い
今から300年ほど前、今の金山町大志・中川地区は、大石村・宮崎村・板下村とよばれていました。このあたりは、江戸幕府の領地(天領)で、農民は、とれた米の半分くらいを、年貢として幕府におさめなければなりませんでした。幕府の蔵に米を入れるので、この地方は御蔵入ともよばれていました。
しかし、山にかこまれたこの地方は、米があまりとれませんでした。そこで、年貢におさめた米を買いもどして食べ物にしていました。そのため人々は、麦、あわ、ひえ、そばなどをつくったり、わらびやぜんまい、木の実などをとったりして米のたしにしていました。
このように、毎日の食べ物にもこまるような生活をしていたので、新しい田を開いて、少しでもたくさんの米をつくりたいというのが、人々の願いでした。
近くに川があるのに
このあたりは、田にできる平らな土地がたくさんありました。「この土地が田んぼにできたらなあ。」人々は、苦しい生活の中で、ため息をついていました。そこを田にするためには、問題があったのです。それは、米づくりにとって一番たいせつな水がないことでした。
どうして水がなかったのでしょう。そのわけを次の地図を見てかんがえましょう。
あわ
あわ

ひえ
ひえ

そば
そば

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