教育福島0002号(1975年(S50)06月)-031page

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教育随想

ふれあい

チビッ子“三匹の侍”

 

チビッ子“三匹の侍”

幼稚部三歳児学級の寸描−

橋本 政一

とにかく、キリキリ舞いの毎日である。ここでは、聾学校勤務二十五年のキャリアも全く通用しない。本年四月待望の三歳児学級が設置され、男の子三人が入学して来たのである。

 

一、三人のプロフィール

はじめに一番小さいチビ君を紹介する。要田から三春、郡山、そして学校のある大槻まで、毎日バス三路線一所要二時間一を乗り継いで来る。ここと思えばまたあちら、伊賀忍者を思わせるほどすばしこい。時に私の腹に頭突きを見舞って風の如く逃げて行く。帰りにはさすがのチビ君も、母親の腕の中で白河夜舟となってしまう。

次はヤセ君、野武士のような精かんさとレジスタンス。マリンルックもシックに、母と二人の妹を従え、堂々と教室に乗り込んで来るのである。

三人目のデカ君はやや太り気味。一見落ち着いて柔和。しかし、気に入らないことがあると、かわいいげんこつを作り身構える。両親ともに聾学校卒業生。かつて父親を受け持ったことがあり、親子二代にわたる学級担任ということになる。

デカ君の家の玄関には特製の押ボタンがある。それを押すと居間の赤ランプが点滅して、来客を知らせる仕組みになっている。デカ君の乳児期には、母親が腕にバイブレーターをつけ、寝ていても、泣き声を膚で感知できるようにして育てたと言う。

 

二、大声が聞こえた。

三人とも、鼓膜は正常だが、ほとんど聞こえず、医学的治療の見込みもない。発音器官は正常だが、聞こえが悪いために、そのままでは何も言えないし、何を言ってもわからない。

補聴器をかけさせ、太鼓をたたくたびに積木を重ねる遊びをやってみた。二、三日でうまくできたので、タンブリンに変えたら、これにも的確に反応した。母親たちがかたずをのんで見守る中、今度は子供の後ろでたたいてみた。これもできた。次の日、後ろから大声でやった。チビ君は不安定だがなんとかできた。ヤセ君もうまくいった。しかしデカ君がまるっきりだめ。今日はやめようと思ったら、母親がしまったという表情でデカ君にかけより、胸の補聴器を取り出した。スイッチを忘れていたのだ。今度はデカ君もニコニコして積木を重ね始めた。

 

三、初めての“読話”

いくら良い補聴器をかけても、障害が重い場合は、言葉の聞き取りが困難である。口の動きを見て言葉を読み取る“読話”が重要になって来る。

「ボーン」と言っていすからとび降りる。「パン、パン」と言いながら手をたたく。「グル、グル」と言って体を回す。毎日少しずつ、こんな遊びを取り上げて来た。時々、口だけで言ってみる。しかし、私の口まねをするだけで体は全然動かさない。

五月の連休が明けて間もなく、「グル、グル」と口だけでやると、ヤセ君が自信の無い表情で体を回し始めた。教室の後ろで見ている母親たちがいっせいに大拍手。続いてデカ君も、チビ君も体を回し始めた。

「オカアサン」という口の動きを見て母親を指さすようになるのも、遠い日ではないように思われる。

 

四、チビ君との対話

数日前、チビ君が何かを訴える表情で私を引っぱり始めた。外について行くと、中庭の池に魚が死んで浮かんでいた。チビ君はそれを教えたかったのだ。私はさっそくほかの二人の手を引っぱり、チビ君の発見と驚きを知らせてやった。

チビ君はまだ、言葉を全然持っていないが、私を現場に引っぱって行き、直接それを見せることによって、自分の発見と驚きを表現し、共感を求めたのである。

私は、みんなが帰ってから池の水を取り替え、金魚の泳いでいる様子が見えるようにした。翌朝、一番早く登校して来たチビ君の手を引っぱって行き金魚を見せてやった。言葉の指導の前に、私はこんな伝え合いや対話をたくさん取り上げたいと考えている。

(県立聾学校教諭)

 

 

 


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