教育福島0002号(1975年(S50)06月)-032page

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教育随想

ふれあい

若いということ

 

若いということ

斎藤幹夫

 

思えば、今から二年前の初夏の日であった。いつものように、ソフトクラブの練習のためグランドに出かけて行った。生徒たちは指示されているとおりに練習をやっていた。私を見つけるなりすぐにあいさつをした。私もそれに対してあいさつを返した。毎日同じことであるが、気持ちが引き締まる思いである。

 

どこもそうだと思うが、グランドが狭いため他のクラブと隣り合い、体を接するようにして練習している。その日もすぐそばで、陸上クラブの生徒が練習していた。その中の女子生徒であったが、突然私に向って「先輩」と言って何かを話しかけようとしたが、あわてて「先生」と言い直した。私も、近くにいたソフトクラブの生徒も、思わず苦笑した。が、私は「先輩」と呼ばれたことがどんな意味を持っているのかを考えずにはいられなかった。というのは、確かにこの学校の生徒は私にとって高校の後輩に当たるので、先輩と呼ばれて不思議ではなかった。だが教師として授業にも出ているクラスの生徒からそう呼びかけられると、割り切れないものが私の心に残った。そのときはまだ教壇に立って日が浅く、自分の気持ちの中にも先生らしいものがないように感じていたので、「先生」でなく「先輩」という言葉が出て来た理由を考えてみた。

 

私は生徒と年齢が近いため話題も共通するものが多く、なんでも話せるし気軽に話しできるふんい気を作っていたつもりであった。そのことが生徒に一歳か二歳ぐらい年上で夏休みなどにコーチに来る先輩のような感じを与えていたのかも知れない。また、それと同時に、若い先生が少なかったためか新任教師の私は、生徒にしてみればあまりに若すぎたのだろう。若く見られることは時として良いこともあるが、その反面、何も知らない青二歳のように受け取られているような気がして、なんとなく不安をかきたてられた。少しでも生徒をリードしょうと思っている私にはショックだった。

 

そんなことがあってしばらくしてから、ある先生に、「先輩」と呼ばれて苦笑の種になったことや、若すぎて生徒を指導できないのではないかということを話した。するとその先生は、「先輩」と呼ばれることはすばらしいことじゃないか、おれなど呼ばれたいと思ってもだめだ、そんなことにくよくよせずがんばれ、と励ましてくれた。それを聞いて少しは力づけられたが、おいそれと自信など持てるものでなかった。

 

その後クラブの生徒たちに接していて気がついたことは、どんなにしかられても、きびしい練習を指示されてもかれらはよくついてきた。そんなことから、私が捨て切れずにいた心配は弱気であったように思えて来た。そしてそのとたんに、このままで良いのだ、このやり方をやろう、という自信のようなものを下腹に感じた。それからというものは、「先輩」とか「青二歳」とかいう言葉など二度と私を悩ますことなく、楽しい毎日が過ぎて行った。

 

教師の生徒に対する気持ちが通じたときや、生徒の気持ちがわかったときは本当にうれしいものである。大会に出場して、一つのプレイに生徒といっしょになって一喜一憂するときの緊張感は、生徒といっしょに無心になって一つの目的に取り組める教師だけの特権であり、教師だけのよろこびである。そんな喜びを少しでも感じられたことは幸いであった。クラブの生徒との心の触れ合いがそうさせてくれたのであろう。

 

そういうことから、「若い」ということは悩みも多いが、生徒といっしょになって運動することもできるし、ささいなことにも喜んだり悲しんだりすることができ、すばらしいことだと思っている。

 

今できることは何かということを考え、今できることを少しでも多くやろうとしている毎日である。

(県立田島高等学校教諭)

 

 

 


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