教育福島0002号(1975年(S50)06月)-033page

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十六歳の死

国分長次

 

四十九年春の卒業式を終えて間もない十七日、教え子のA君より電話があった。「先生!!Y君が死んだ。」「……」私は絶句した。予期されないあまりにも冷酷な言葉である。

Y君は、私の担任した生徒の一人であり、つい最近、数回私を訪ねて来たばかりである。若き農業後継者として農業の多角経営を目指し農業高校へ通学していたが、原因不明の病気にかかり六月以来それと闘っていた。中学校時代にはバスケットの選手として人一倍のファイトの持ち主であったが、私を訪ねたときはあのがっしりした体格の面影はもうなかったことが記憶になまなましい。

A君からの電話ですぐ車をとばした。うそであってくれと願いながら…。玄関に立ったとき、見苦しい姿を見せまいとして悲しみをこらえていた父親のほおに、突然止めどもなく涙が伝わるのを見た。私はなすべきことを知らないまま父親の両手をただ黙って握った。今になってみると彼自身自分の体力の限界を悟っていたのだろう。自分の将来のことをだれに相談することもなく一人でじっと悩み続けていたのだろう。高校だけは卒業したい、その一心から私を訪ねたのだった。今の高校から近くの高校へ転校したいとのことであった。そんなに病気が進んでいるとは知らない私は「多分高校一年での転校はない、再受検するしかない。」と言ってしまった。あのときのがっかりした顔が忘れられない。なんで彼の体のことを早く察知できなかったのだろうか、この言葉が彼の死を早めてしまったのかも知れないと思うと、はらわたのちぎれる思いである。

二回目に私を訪ねたとき「先生、何か参考書ありませんか。」私は手もとにあるものを与えた。あのとき彼は再受検する決意をしていたのだろう。やすらぎと、明るさが、その顔にもどっていた。「Y君、早くよくなれよ。まず健康第一だ、一年や二年がなんだ、健康になってからでもおそくはない、早くなおせよ。」これが彼との最後の言葉となった。しかし死に直面している彼にとっては時間の余裕はなく、進学希望抑えがたく猛勉強を始め十六歳の生がいを閉じたのである。おそらく肉体も精神もボロボロに疲れていたことだろう、

当時学級委員長であったA君がすぐクラスの友人たちにY君の死を告げ、数名のものが遺体の前に合掌しながらその急死にただぼう然としていた。彼らは彼らなりにY君への弔意を示そうと東ほん西走し、花輪をささげようと相談して来た。私もそうあるべきことを告げ担任として万端整ったことを自負していたが、その夜のことである。他のクラスだったSさんから怒ったような電話を受け取った。「先生私達はなぜまぜてもらえないのですか。」この言葉に私は返答を失った。教師として考えが狭かったこと、クラス内だけに閉じこもっている自分に恥ずかしさを覚え赤面した。絶えず学年は一体だ、クラスに壁があってはならないと主張していた私は今どこに行ってしまったのか。自分のいいかげんさに驚くと同時に私は教師としてのうれしさをSさんの言葉に感じた。Y君の死に際して、真の同級生の道徳的心情と、死を悼む一つの心を私は知った。告別式当日、八十数名の友人たちが参集した。あるものは学校を早退し、またあるものは運動をやめ、就職したものは遠くからかけつけたのである。Y君の思い出を胸に秘め一人一人が心からめい福を祈った。『同級生一同』の花輪が一段と大きく目に映った。だれの発案か一人一人のお別れのサインした色紙が仏壇の上に供えてあった。生徒たちは私が考えている以上に同級生としてのつとめを考えてまた実行している。利己的な世の中と言われる現在、私は道徳教育を教え子から教えられた。

Y君は天国でこの、同級生の暖かい心に触れ、さぞよろこんでいるであろう。Y君はある意味では幸せだったのかも知れない。病気のこと、将来のことをもう悩む必要はない。既に体力と精神力に限界がきていた彼にとっては荷が重すぎた。自分一人で悩み続けたことに対し担任であった私はなに一つしてやれなかったことが今になって悔やまれてならない。しかし大勢の同級生から慕われて旅立ったY君は幸せだった。ただ十六歳の生がいを考えるとかわいそうでならない。梅かおる中にも膚寒さを感ずる日であった。

(安達郡本宮町立本宮第二中学校教諭)

 

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