教育福島0004号(1975年(S50)08月)-034page
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
教育随想
ふれあい
![]()
おらほの先生
佐藤和子
「先生、ぼくこと、みんながばかだって言うんだ。けんかすっといつも言うよ。こんど佐藤学級にきたら、できるようになっぺか」と、真剣な顔で私を見つめていたSの言葉に、はっと心の痛みを覚えた。おそらく、この思いはSだけでなく、学級児童全員の悲しさなのであろうが、「この悲しさを自分のこととして受け止められるような教師になろう」、そして、「粘り強く、一人一人の子らの可能性に自分をかけてみよう」と思い立ってから、早くも三年余が経過しようとしている。
いつも鼻汁をたらし、顔すら洗ってこないS、甘えて手を離さず、友人を見る度に、「おらほの先生だぞ」と、得意気に告げ回るH、調子に乗るとかなり悪ふざけをするK、いつも不安気に落ち着かずどもりがちなA……と、学年も能力も異なる子供たちに囲まれて、一人一人の児童の行動観察、能力調査、それらの資料の分析と対策など頭の痛い毎日であった。
まず、彼らの心の傷をいやし、この学級に来てよかったという安らぎを与えるために、なにを話しても友人や先生は本気で聞いてくれるんだというふんい気作りに力を入れてみた。最初はSの失敗談に机をたたいて笑っていたKも、かたくなに心を開かなかったAも、しまいには上級生や地域の人にしかられたこと、近所でのできごとまで話すようになり、私の観察日誌もそれらの事項と手だてなどで厚さを増してきた。「Kへの追い打ちをかけるしかり方、禁物」などと朱書されたノートを見る度に、あのときのかっとする自分を抑さえようと努力した姿が昨日のできごとのように思い出されてくる。
そんなある日のことであった。そっと教室の戸を開け、私の背後に忍び寄る子供の気配、「ははん、S君」と言うと、「先生、ずるいぞ。また電波かけたな」と言いながら、背中から重そうにふきの束を降ろし、「これ、先生にかあちゃん採ってくっちゃだ。ぼくかけ算できるようになってうれしど」と鼻をこすりながら告げる。あの無関心なSの母親が、しかも日雇いの合い間に採ってくれたのであろうと思うとそれだけ意識にとどめてくれるようになっていたことがうれしく思われた。
また、Sはポケットからささまきを取り出し、「先生、これうまいぞ」と言って相変わらず汚れた手にしっかり握った物を私の手につかませた。
「あら、おいしそう。これもかあちゃんが作ってくれたの」とは言ったものの、鼻汁でピカピカ光ったそでや汚れた手を見ると、いささかためらいを感じた。が、「えいっ」とばかりばくついて「ああ、うまい」と言うと、「先生、本当か。やっぱりおらほの先生だ」と実にうれしそうな顔をし、私の耳元で「あのな、あんちゃほうの先生は汚いから食わねって言ったんだって」と言いながら意気揚々と教室を出ていった。
それからのSの学習に対する意欲と生き生きとした言動は、気のせいだけでなく、他の先生がたからも「Sは変わったな」と言われるほどになった。
ようやく各人の性質や能力がわかりほっと一息つけるようになってきた。あれは、忘れもしない三月十二日、雪の悪路で思わぬ時間をとり、教室へ駆け込んだ私に、一番年長のKが、「先生、何か忘れていねか」と言う。「はて、何を約束したっけかな」と、けげんな顔をしている私に、Hがしきりに誕生表を指さしている。Kの合図で調子っぱずれの「パッピバスデトウユ…」の合唱が始まった。ふっと熱いものがこみあげてきた。「ありがとう。よく覚えていてくれたのね」という私の言葉に、「先生だってぼくらの誕生日忘れないもん、あたりまえだ……」と言うK。プレゼントの箱には、かなり苦労して折ったであろうミニの千羽鶴が二連と絵の得意なKがかいた私の似顔絵と全員の寄せ書きが入っていた。
それぞれの特技を生かし合い、心こめて教師の誕生日を祝ってくれる……。これが知能の遅れている子供たちかと見直す思いで、たどたどしいHの手紙を読みながら、教師みょう利に尽きる一日を過ごしたのであった。
(南会津郡田島町立田島小学校教諭)
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |