教育福島0004号(1975年(S50)08月)-035page

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心のふれあい

大楽治男

 

午後十一時二十分、電話のベルがけたたましい音を立てる。受話機をとると「先生、うちの子がいません。まだ帰ってこないんです。どうしましょう。どうしたらよいんでしょう」と必死な声である。一瞬ギクッとし「落着いて事情を話してください」。

これがS子との一年間にわたる忘れられない触れ合いの始まりである。

この日、S子はなんの前触れもなく何物かにとりつかれたようにタクシーで福島市方面に旅立った。母親の財布から五千円ほど抜き取って家出の途中タクシーの運転手が不審に思いいろいろ事情を聞いたが納得できず、連れもどってくれたのが、午前四時三十分であった。

母親は、若くして夫と死別し、一人でS子の姉と三人の生計を支えていた。S子は母に悩みを打ち明けることもなかった。担任であった私にも、平凡で静かなS子は、特に目立つ存在ではなかった。

この日を境にして、S子の生活は全くその様相を変えてしまった。

二、三日、S子の態度を見ることにした私は、不安もあったが明日は登校するように言って帰宅した。翌日S子は登校しなかった。その翌日も……。三、四日たって家庭訪問をすると、雨戸を引き、部屋の中でふとんをかぶっていた。会ってみると、なにも話さず上目使いで見る顔が無気味であった。「明日は出てこいよ。こんな薄暗い部屋の中にいるよりも、明るい日光の中で思う存分あばれてみろよ。クラスのみんなも心配しているし、T子も心配していたぞ」「・・・」「みんなには少し体のぐあいが悪いと言っておいたよ」「・・・」こんな調子の家庭訪問が、登校前、授業の合間、放課後と一か月に五十回以上も続いた。しかし、依然として登校拒否は続いた。

家出後、十数日たって母親は泣きわめくS子を精神医に連れて行き診察を受けた。その結果、精神不安定であり更に、二か月後には自閉症の診断が下った。私は精神医に最良の治療法はないかと尋ねたが、答えは以外と冷たかった。本人の意志によるほかはないこと、また屋外で十二分に体を動かすことがたいせつだとのことである。

よし、いろいろやってみようと考え級友に見舞い品を持たせて行かせた。これは効果があった。見舞いは医薬に勝るものであった。友達の無遠慮さから、部屋の雨戸を開かせ、友達のこと授業のこと、担任の悪口などおもしろく話したらしい。しかし、次の日になると再び元の状態にもどってしまった。

早くも三か月が過ぎ、中学三年の修学旅行が迫った。私も多忙にかこつけて訪問せずにいた。ところが、母親からの電話で「先生は私を忘れたのか、いやになって来ないのだろう。絶対に学校なんか行くものか」と泣いていると言う。このとき「はっ」となにかに突かれた感じがした。そうだ、忘れていけないS子がいたのだ。よし修学旅行に連れていってやれ。責任は、おれが一人でとればよいと心に誓い、その日に学校長、学年主任の理解を得て家庭訪問をすると青い顔を出し微笑してくれた。「どうだ、修学旅行に行くか」「クラスの友達は『全員そろって行けるとよいな』と言っていたぞ」「だって長く休んだから恥ずかしい。けれど修学旅行には行きたい」と初めて口をきいた。

次の日、修学旅行に必要なものを用意して持って行くと、床の上に起き上がり待っていてくれた。とてもうれしかった。泣きたい気持ちだった。修学旅行が助けてくれた。「よし、今度は修学旅行の練習だ。体を鍛えるのだ。今度の日曜日だよ」と言って別れた。日曜日に訪問すると少しいやがったが思い切って引っ張り出した。バスに乗って海岸に出て、海を眺めながらいろいろのことについて話をした。なぎさを歩きながら、これで立ち直ってくれよと祈った。家に帰ってから、弁当のおいしかったことなど母親に話す表情は明るかったという。

月曜日の朝、友だちに助けられ、晴れ晴れとした顔で校門をくぐった。級友たちの拍手が響きわたった。それからは全く欠席もせず、学習の遅れを取りもどし、高校入試にも合格した。真新しい高校制服を身につけた彼女に、これからが本当の人生だ、強く生きててくれよと心から声援をおくりたい。

(いわき市立好間中学校教諭)

 

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