教育福島0005号(1975年(S50)09月)-006page

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解 説

 

学習指導の改善

佐竹 俊彦

 

一、はじめに

 

昭和二十三年、戦後の新しい制度の下で発足した高等学校が、人々に与えたイメージは、中等教育の一部と言うよりも、その名の示すとおり、高等教育の一環としての存在であった。旧制高校の廃止が、そのことを一層深く、人々に意識させた。

今日における高校教育の問題点は、発足当時の高校教育に対するこのような認識に起因するところが多いように思われる。高等学校が、ドイツにおけるギムナジウムとの連想から、大学教育の予科的存在として考えられた戦前の認識が、多くの人々の思考様式から払しょくしきれなかった。

高校入学前に、既に厳しい選別が行われ、将来の指導者層を構成するエリートのみが入学する旧制高等学校の教育方針が、そのまま取り入れられたとしてもむりからぬことであった。

しかし、戦後の教育制度の改革が、アメリカの制度を基本としたもので、その意味から、高等学校が、中等教育の後半として理解されるべきであり、アメリカにおいて、ハイスクールが持つ中等教育における位置づけに、高校教師は認識を深めるべきであった。

高校教育が、一部のエリートのための教育であった時代は去り、義務教育に続く準国民化された教育となった事情は、既に、アメリカにおいて経験されたことである。

急激な経済発展の結果として、子弟に対する高等中等教育の可能性が高まるとともに、伝統的な学歴社会もその一因となって、ほとんどすべての青年が、高校教育を受けるようになった。

このような高校教育の量的拡大は、それ自体喜ぶべきことであろうが、質的な拡充が、それに伴わなければ、学校は荒廃するのみで、結果的には、国民全体の損失となるであろう。

学力の低下をはじめとして、生徒指導上の諸問題が憂慮されているが、これらは、高校教育の量的拡大に、質的な改善が追いつけないことから生じていると思われる。もちろん、物的条件の整備にも十分配慮すべきであるが、質的なもの、すなわち、教育内容や方法の面での対応が全国的に高校教育の諸問題の大きな原因の一つとして、指摘されているところである。

量的拡大によって、高校教育にもたらされた多くの問題のうちで、特に、学力の低い生徒の入学による学習指導の困難が、それに伴う生活指導のあり方とともに、高校教師が、常に、努力しながらも解決に苦しんでいる問題でもある。

戦前からの伝統的な中等教育の経験からは、このような学力の低い生徒に対する効果的な指導法を見いだすことは、なかなか容易でない。教育という長期間にわたる経験が、重要な意味を持つ人間活動において、全く新しい局面を迎えて、実践的な経験を基礎とした指導助言を与えることができずに苦慮しているのが、現在の高校教師の姿ではあるまいか。

 

二、生がい教育

 

今日の厳しい因難な状況の下にある高校教育の中では、教師に期待されるものが、単なる文化遺産あるいは知識の伝達にとどまるはずがない。知識技能の伝達も重要な教育活動の一面ではあるが、複雑多様化した現代社会においては、知識技能のすべてを教えることは不可能に近い。

高校教育が、知識技能の伝達を第一義とし、また、知識技能修得の量や程度をもって学力としたならば、記憶力に優れ、目先のきく生徒にとっては、学校は楽しい生きがいのある生活の場となるであろうが、他の多くの生徒にとっては、魅力の乏しい陰うつなものになってしまうのではなかろうか。

教育は、過去の文化遺産を受け継ぐとともに、次の時代に生きる青年に、未知の世界に入っても積極的に学習を続け、自分自身を高めると同時に社会の進歩に尽くすことのできる力を与えることだと言われている。

そのためには、教育は学校で終わってしまうものではなく、生がいにわたって、学習が継続されなければならないとするのが、現代の世界的な思潮である。

この考え方に立てば、学力とは、未来に生きる力となる柔軟な応用力のあるものでなければならないし、高校に

 

 

 


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