教育福島0005号(1975年(S50)09月)-010page

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●実践例

 

各教科等における学習指導の改善例

 

国語科

 

「現代国語」における文学作品の学習指導の一方法

 

一、文学作品の学習指導の方法

 

従来、国語教育を支配していた方法は、数次の読みを段階的に行って、次第に読みを深めてゆこうとするものである。それは、まず、主題を想定し、ついで、素材を分析し、段落を設定し構想の吟味を経て、仮定された主題の確認に入るという方法である。これは作品は、主題・素材・構想・叙述・推考の過程で形成されるものであり、読解は、この過程の追体験であるとの立場に立っている。

もっとも、この方法に対して、私たちが一つの作品を読むに当たっては、第一次過程はどのようにという分析的作業をしながら読んではいない、という立場からの異論も示されている。

しかし、作品への切り込みの方法の適否は、作品の表現構造自体の質によって選択される点から見ても、一つの方法をもって、文学作品の学習指導の唯一のものと論断するわけにはいかない。少なくとも、どの方法をとろうが究極的には、作品を統一的にとらえ、形象・主題に読みひたらせるとともに生徒の主体的な価値意識を働かせる上での工夫が、人間形成にかかわる文学作品の学習指導のあり方として、期待されているのは事実である。

 

二、文学の表現と理解

 

文学の形象は、言葉による形象であり、その言葉も、言葉本来のあり方により、概念性と形象性の二つの側面を持っている。この点から見ても、文学作品の意味に迫るためには、いわば、ロゴスの論理だけではなく、イメージの論理を通してたどらなければならないのは当然である。

それを、若山牧水の代表作である、〈白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ〉で考えてみる。

ここでの唯一の心情表現であるくかなしからずや〉は、悲哀・愛美のニュアンスのすべてを含む言葉であり、概念的理解の助けを必要とする表現の一つであろう。

しかし、「白鳥」は、広辞苑によれば、〈カモメなり。鳩より大きく、体は白色、背と翼は青灰色なり〉とある。その結果「白鳥」は、薄墨色をした事実の次元に引き落とされ、愛美の対象としての力を喪失する。

ここで、「白鳥」を感覚による理解の対象とすれば、それは、あくまで純白で美しい存在であり、一面の青い空青い海との関係の中で、小さい、かれんな生命としてのイメージを作り出してくる。加えて、前述の〈かなしからずや〉の心情にまで具体性を与える力を持つ。

この小さい事例から見ても、文学作品の学習の場合、読み手の実感としてどうとらえるかの上で、イメージの論理による学習が重視されるのは当然のことになろう。

 

三、イメージ読みの実践例

 

次にあげたのは、A高校で実践された、芥川龍之介の「みかん」での読みの一部である。この読み方は、語→句→文→連文→段落→全体というふうに感覚によるイメージ作りを重ね、それが終わってから「まとめ読み」をさせて、作品の全体像を構成する読みである。その際、生徒は、「立ち止まり」「予測」をし、それが読み進むにつれて、修正、補強されながらラセン状にイメージを進化させてゆく読みである。

(一)題名読み

季節が限定される。晩秋から冬にかけての出来事らしい。「みかん」そのもののイメージは、ごくありふれた普通のもの。幼時の懐かしい思い出といったもの。

(二)各センテンスの読み

1) 〈曇った冬の日暮れ〉から受ける感じは、心細く、重苦しく暗く、寂しいイメージ。

2) 「私は」により、「みかん」

 

 

 


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