教育福島0005号(1975年(S50)09月)-019page
英語の授業に興味を示さず、学習意欲を失っている生徒が多いことが、各研究会等において毎回報告されている。
中学校時代に既に意欲を失った生徒も多いにちがいないが、高校入学時に新たな決意を持って、英語学習に取り組んだ生徒が、授業が進むにつれて、脱落していく事例も多く報告されている。
このような状況の下では、学校教育が終わると同時に、英語学習は終わりその後における学習の継続は期待できない。生がい教育の観点から見れば、まことに遺憾なことである。
従来から、英語の授業が、生徒にとって「おもしろくない」授業であることは、例外の存在を認めても、一般的な現実と言えるであろう。
興味を失っていく原因の一つとして多くの生徒が、教師に対する不満を表明しているが、このことは、いわゆるStudent-centeredの見地を忘れて授業が行っていることを示している。
生徒の立場に立って、生徒の実態をは握して授業を進めることの重要性を認識しながらも、教師の一方的な判断によって授業が実施され、学習意欲を高める努力の根底にある生徒理解のための事前研究、すなわち、中学校英語の学習状況、学習習慣の形成などについての研究が、必ずしも十分とは言えないようである。
二、「わからない」
生徒にとって、「わからない」ということが、教師の責任というよりも、生徒の勉強不足を意味した時代は、既に過去のものとなり、最近は、「わからない」のは、教師の指導法が適切でないからだと指摘される。
指導内容を精選することは、生徒にわからせるために重要なことであるが外国語は、中学校、高等学校を通して初歩的なもの、基本的なものを学習する教科であり、また累積的な内容を持つ教科であるから、中学校英語の修得は高校英語の学習に欠くことができない。
生徒にわからせるためには、中学校英語の基礎の上に、高校英語の授業が展開されなければならない。高校生に求められる英語の知識と、その運用能力の程度は、学習指導要領に示されているが、それは、中学校英語の基礎の上に、極めて広範囲にわたって、生徒の能力に応じて、目標を定めることを認めており、教師の工夫にまつところが多い。
高校における英語学習を始める前に生徒が「わからない」事項を解明し、その上に立って目標を設定し、指導の改善を図ることが順序である。
教師の側で、事前に、高校英語の望ましい水準を設定し、判断がすべてその規準からなされるのであっては、高校教育の義務化が叫ばれている今日の高校生にとって、幸せなことではない。
三、多様化
生徒の能力・適性の多様化に伴って英語の学力差が、従来も大きかったが更に広がり、指導がますます困難になった。
このような生徒の激しい変化に対して、高校教師が示してきた反応は、余りにもこそくなものではなかったかと反省したい。学習者のどんな変化にも応ずることができる指導法を、既に、英語教師が身につけ、十分に効果をあげているならば問題はない。しかし、生徒の多様化に応ずる指導法の開発には、多くの教師が戸惑っているのが現状であろう。
生徒の変化に応じて、教え方も変えるべきであり、生徒一人一人に、それぞれ適した方法があるとよく言われるが、われわれ英語教師には、そのような意味でのflexi bilityが足りないように思われる。
教育の本質が、停滞ではなく前進を現状維持ではなく向上を目指すならば多様化した高校生の英語教育について更に、論議を重ねる必要がある。
四、改善の視点
大学入試のために英語を学習するのを、一概に非難することはできないが同時に、大学入試を必要としない生徒に、英語学習の意義をわからせるのも英語教師の使命である。いずれの場合も、英語学習に対する興味関心が、高校卒業後も、生き続けることを願って努力すべきである。
高校を出ると、忘れてしまうというよりも、苦痛に満ちた英語の授業からの解放感から、一切の興味を失ってしまうのは、なんとしても残念なことであり、改善しなければならない。
この原因として、試験に合格することを第一義として、extrinsic motivationのみで、英語の授業を進めることが考えられる。単語を暗記し、くどくどと展開される文法の説明にへき易し、英文を見ればdeciphererとなり英語が人間の実生活とかけはなれた巨大な怪物のように思われるのでは、試験が終われば、なんの興味も残らないのは当然である。
言葉は、思想伝達の手段であると理念的には理解しながら、英語教師自身が、英語を用いて意志を伝え合うことをしない、また、その努力を忘れては生徒に英語学習に対する興味を持続させるのは不可能である。
学力に応じて、あらゆる段階の指導において、教師が積極的に英語を用いて、生徒とのcommunicationを図ることは可能であり、その連続が好ましい学習習慣を形成し、英語ばかりでなく日本語においても、自己を表現することに喜びを見いだすようになるであろう。intrinsic motivationは、このような指導の中から生まれてくる。なぜならば生徒の心に内在する外国語学習に対する関、心の方向は、まさにそこにあるのだから。
生徒が期待することを明らかにし、