教育福島0005号(1975年(S50)09月)-030page
教育随想
ふれあい
卒業式の日に思うこと
山内 力雄
卒業学年を受け持ち、無事卒業式を迎えると、ほっと胸をなでおろす反面なんとなく一まつのさびしさを感じるのが教師の常ではなかろうか。
今春の卒業式には、卒業学年を担当していたが、学級担任ではないので、今までのように深い感激も、涙を流すこともあまりないのではないかと心安く思っていた。
いよいよ式も終わり、螢の光のメロディーで校門から卒業生を見送ることとなった。男生徒は、力強く手を握り明るく元気に「お世話になりました」女生徒は、すすり泣きながら、聞きとれない低い声で「先生さようなら、お元気で」と去って行く。
そのうち、二年生のとき受け持ちであったTが私の前に来た。彼は、今までこらえていたものを一度に爆発させたごとく、「先生いろいろご心配かけてすみませんでした。これからはまじめに一生懸命やります」と言って、辺りかまわず大声をあげて泣き出した。両ほおを伝い流れる大粒の涙をふこうともせず、じっと私の手を握りしめている。私のほおにも同じ涙が流れ、Tと私は本当に同じ気持ちになった。
涙には、理屈も弁解もない。今までの彼の生活指導で私が求めていたのは心と心の触れ合いから生れるこの涙を流す気持ちになってもらうことであった。当時のメモには、
六月○日(月)
朝自習に遅刻。「昨日家族旅行で温泉に行き、かぜを引いたので、午前中で早帰りしたい」とのこと。おとなしく寝て早くなおすようにと話して帰す。ところが翌日右手を包帯で肩からつって登校。早帰りをして寝ていると、窓べですずめが鳴いている。(巣が近くにあるらしい)と、そのまま窓から屋根へ、巣に手を入れているうちに足を踏みはずして転落、骨折した。そのあげく、休み時間にあいている左手で女生徒のスカートをまくったと帰りの学活に出される。
六月×日(月)
顔中、ぼこぼこにして登校。昨日裏山で漆にかぶれたとのこと、清掃のとき顔のことを言われた相手にぞうきん水をかける。
などなど。毎日Tの名が出るし、指導記録欄もいっぱいになっていった。放課後、呼んで話をする。「先生分かりました。これからはしません。ところでおれの隣の家では……」と世間話から家のことなどなんでも素直に話をする。話し合っているうちに、これで心の触れ合いもできたから安心だと思っていると、次の日また、新しいいたずらをし、指導がいつでも後手に回ってしまう状態で二年の一学期が終わりた。
Tのことを通して、いかに生活指導が難しいかを思い知らされた。
学力を身につけさせるための教科指導は、生徒指導や道徳、特活指導といった基盤の上に成り立つものであり、この面での指導が徹底充実しない限り学力の向上や人格の完成は成し遂げられないものと思える。こう考えると、学級担任の使命と役割の重大さを改めて認識させられた。一定の限られた時間しか学級の生徒との接触がない、中学校の学級担任の難しさがあると思う。
二学期からは、Tの先手をとる指導を試みた。生活計画を立てさせる諸検査の分析、家庭訪問による生育歴の調査など。そして何回かのカウンセリングの結果、T自身の自覚もあってか、学活に出されることはなくなった。
三年になってから、Tの目が外部に向き、そのためいくらかの問題もあったが、二年からの指導の累積が効を奏してか、大事には至らず、今ここに無事卒業することができたのである。
Tの頭の中に、今までの数々のことが浮かび、ついに泣けてしまったのだろう。その涙で、今まで何回となく裏切られたり、苦しめられたりしたことがすべて報われたように思えた。
生徒とともに手を取り合って、涙を流し、心から感激することができる職業についたことに本当の喜びと誇りを感じるのが、卒業式の日ではなかろうか。聖職でも労働者でもどちらでもいい。こんなに感激できる瞬間があるのだから。
私は、卒業生の去る校門とは反対の方向、田村富士と呼ばれる片曾根山に向かって静かに歩いた。その日の片曾根山は、これまでの卒業式の日とは違って、心なしかかすんで見えた。
(田村郡船引町立船引中学校教諭)