教育福島0005号(1975年(S50)09月)-031page
限りない可能性に期待して
藤村貞子
「先生!お話することあるよ」
「ぼくも、あるよ」
月曜日の朝の一年生の教室。こんな会話があちこちからはずむ。日曜日の話を早く聞いて欲しい声である。
六月二十三日 国語の時間。
今日のめあては、(一)どこで (二)だれと (三)何をしたか、の話し方。
めあてを大きく板書する。おまけとして、●どんなだったか。ここには赤丸を付ける。おまけはむりにしなくていい。できたらお話すること、と前々からの約束である。
「ぼくは昨日ひよこと遊んだの」
「台所に飛んできたくわがたを捕まえました」
このころになると、しりごみをする子も友達のまねをする子もほとんどなくなり、話題は多種多様に広がって楽しい。
「ひよことどこで遊んだのかな」と、(一)項目の脱落に気づいて追求する子。そろそろこの子たちの耳も、心して働くようになって頼もしい。
今日のわたしの仕事は、一人一人の語形の吟味と補正。ようやく人前でもおくせず話せるまでになった子供たちの心を、教師の不注意な言葉でしぼませることのないよう配慮して、表現の重複とめあての三項目の脱落がないように助言する。その子なりのよさを認めて賞賛、激励することが次の意欲に結びつくことは確かである。
語形を正すことに加えて、でき得る子には、事柄の様子を少し掘り広げることも今日あたりからの予定。
「ひよこはどんなふうにしてえさを食べたの」
「くわがたを何で捕まえたのかな」
と、視点を当てそのときのことを思い出させる。
「くちばしでえさをっついて食べたの。えさはね、米粒みたいのだよ。食べたあとで地面にくちばしを何回もこすりつけてた」
「くわがたは、お父さんがうちわでハタハタたたいてやっとつかまえた。足に糸をつけて、ぼくの机の足にしばっておきました」
既に順序よくまとまったお話のできる子には、確かな認識の上に立つ個性的なとらえ方、創造的なとらえ方をさせて、ものをよく見る目と、それを正しく表現させる力を養っていきたい。それが作文指導のための伏線でもある。
入学してきた四月の初めから、触れ合いを大切にしたい気持ちと、子供たちを取り巻く環境を知りたくて試みている休日明けの”昨日のこと”の話し合いであった。
これで何度目になるのだろう。
「昨日は何をしていたの」の問いにも「自転車乗り」とか「ままごと」とか断片的な言葉だけがかえってきた初期のころに比べて、
「今日は、ぼくからお話させてね」と、催促してくるこのごろである。
作文を書くことも、文字をうろ覚えのころから一向に苦にしてない様子。とつとつながら考え考え鉛筆を走らせている姿……。おもしろいことがあった、先生に知らせてやる、といった調子なのだろうか。
じょうず、へたは大いにある。読みにくいことも事実。
でも子供たちの生活がそこにあり、生の声がそこから聞こえてくる。
表現のおもしろさに、その子の姿が浮かぶ書き表し方に、思わず共感を抱きながら小さな丸を幾つも幾つもっけてやると、一生懸命数えている一年生。
今年もまた「とじ込み文集」を作っていこう。毎回、毎回の作品を日付を書き入れて積み重ねていく個人ごとの文集。この一年間を……来年もつづり続け、また、お別れの文をはさんで返してやることになるのだろうか。
明日もまた、精いっぱいの気持ちで聞かせてくれる”昨日のこと”の話を待つ。
(いわき市立四倉小学校教諭)
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