教育福島0005号(1975年(S50)09月)-035page

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J君の健康を祈って

伊藤 幸子

 

四十九年四月、身長百二十七センチの小柄なJ君との出合いである。入学当時の彼は、三つの小学校、三つの分校から集まった級友の中で、抵抗もなく快活に過ごしていました。

ところが、同年の十二月から、腹痛を訴え、欠席が目立ち始めました。

彼の家族は、共働きの父母と妹の四人です。家族にとっても、彼の腹痛の原因を早く知り、全快を祈らずにおられなかったのでしょう。母親といっしょの通院が始まりました。初めは、0医院でのX線撮影により、胃かいようと診断され、内服治療を開始したのです。それでも腹痛を訴え続けました。このころから、母親は、学校ぎらいを心配しだしたのです。泣く彼を連れて登校してきました。しかし、私には、彼の顔は苦痛でゆがんでいるように見えたのです。母親には、医師に現在の状態を話して相談して欲しい旨を話し、J君には、医師の正確な診断と治療のほかに、「病は気から」とことわざにもあるように、分自身の精神力も大事なことを話した。彼は黙ってうなずくだけでした。

一週間後来校した母親は、医院をT医院に替えてみたが診察結果は同じであり、内服治療でも痛みは除去されないのだと告げ、困惑しきっておりました。担任としての私にできることはなんだろう。このときほど、自分の無力を感じたことはありませんでした。

母親も、心配の余りか、同僚の助言だと言いながら、更に、医院を替えたのです。それでもなお、苦痛が取り除かれなかったのです。母親に引きずられながら登校する彼の姿は、一層小さく、やせ衰えて見えました。

三月になって、学校ぎらいや胃かいよう以外に原因はないだろうか、と思わずにいられませんでした。母親に、大病院で、今までの三院の診察結果を話して検査を受けるようにと勧めてみました。若松のT病院で、脳波から来る痛みであることが、判明したのです。ここでも、内服薬による治療のようでしたが、腹痛はいやされません。J君に合う薬が見つかるまで、医師との連絡を密にするように話してみましたがその後も一向に痛みが取れないままに新学期を迎えてしまいました。

学習、クラブ活動に楽しかるべき時期に、J君は病との闘いですっかり疲れ、依頼心だけが強くなり、早退するかどうかさえ、母親に決めてもらって返事するほどになっていました。「強くなってね」と祈るばかりでした。

二年生になって、初めての作文に、「ぼくは、いろんな友達と仲良くなれてよかった。それも、おもしろい人や怒りっぽい人など、いろいろな人たちが集まって勉強もできる。それに、この学級の班活動が楽しい。自分の希望は、早く大人になって、家の裏に、しいたけとなめこの栽培をして、大金持ちになることです」

この考えは、彼にとって、今の身体から出る最大の叫びだったのです。「そうだ、その意気だよ。きのこ栽培の夢を実現させようね」と激励しました。その間も、常に痛みはついて回ったのです。

四月下旬、J君は、I病院に入院。六月には、医師の指示で、病院から午前中だけめ通学が始まりました。ところが、痛みを訴え、途中から帰ってしまうことが見られ始めたのです。午後の病院での生活は明るいが、朝になると痛みを訴えるということで、担当医から学校生活の様子の問合せがあり、再三、電話で連絡を取りながらの生活が続いたのです。だが、保健室での休養が多くなり、午前中で早退することが続きました。

そんなことの繰り返しを続けているうちに、治療の効果があって、七月の期末考査には、十日間の外泊が認められ、自宅からの登校が始められたのです。今までと違った彼を感じさせました。J君の顔には、微笑が見られ、友人と飛び回る姿が見られ始めたのです。

「このごろ、顔色がいいね」「太り始めたね」と、自分は回復に向っているのだという自信を持たせてやりたい…。そんな願いでの会話を続けました。日一日と回復に向う彼の周囲には、級友や温かい家族の愛、精神的な支えがあってこそと思うとき、ある意味で、教師としての喜びの反面、無力と限界を知らされました。

 

(耶麻郡熱塩加納村立会北中学校教諭)

 

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