教育福島0005号(1975年(S50)09月)-037page

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わが町の生がい教育

 

青年にアタックした二つの試み

耶麻郡西会津町教育委員会

 

現在我が町には家庭教育学級七(うち補助学級六)、婦人学級五(同三)、乳幼児学級一(同一)、高齢者学級五(同一)の学級と、書道・俳句・野草・史談等の成人向教室がある。

こうしてみると明らかなように、青年を対象とするものだけが陥没していて我が公民館としては、長年の悩みの種であった。昭和三十年の前半まで青年学級を開設していたのではあったが過疎化と都市化が進むにつれて衰滅していった。

青年は学習への指向も意欲も、まるで忘れたかのようであった。

一、「遊び場開放」もう一つのねらい

昭和四十九年度、私たちは国の補助を得て遊び場開放の事業に取り組んだ。子供の安全な遊びもさることながら、もう一つのねらいは、学習とか奉仕とかの理念を知らずに自己本位にのみ生きている町の青年たちを、この機会に「社会教育」の空気に触れさせ、誘い込むということであった。

そこで、この指導員に野沢小学校男子教師、同PTA役員のほかに二十数名の若者たちを委嘱した。危ぐは大きかったが、とにかく決断した。

土曜の午後、日曜全日、又は夏期休業中、青年たちは教師といっしょに子供らとボール遊びをしめんどうを見た。

「よかったら使ってくれ」と言ったのはうそではなかった。 「私たちはこういうことをやりたかったんだ」と、校庭にラインを引き石を拾って歩いた。

二、ヤングスクール「月一回では物足りない」

この姿に勢いを得て、この四月、青年会と商工会青年部の幹部を招き「青年教室」の開設について相談した。

名称を「ヤングスクール」とし、対象を十八歳から二十五歳まで、せめて二十人の学級生を確保しようと、本館とこの両組織は申し合わせた。

勢いを得たとはいえ、私たちはまさにおっかなびっくりだった。開講の日を六月から十二月まで毎月一回、計七回とした。そして学習内容も1)「町の歴史のあらましを知り、愛と誇りを持とう」 2)「町の国・県・町指定の文化財を見学し、理解を深めよう」 3)「ぼくもエプロン姿でガッツな料理を作ってみよう」 4)「仲秋の良夜、名月を眺めてメイ句を作ろう」 5)「強烈なロックのリズム……心にしみるタンゴの調べ……さあ踊ろう」 6)「エリザベス女王もお茶を味わった。まして我ら日本人、神妙にお茶を習おう」7)「映画と音楽で楽しい別れ。先輩も交えて来年を語ろう」とグッとくだけて、チラシを全戸に配った。

かくして開講式の六月十三日を迎えた。それまで申し込み者は二十人を軽く突破して三十人を超えていた。「恐らく四十人は固いのではないか」と私たちは胸を躍らせた。

午後五時、若者たちは次々と玄関にくつを脱いだ。「友だちに誘われたので……」という声に受付は汗を流した。用意したプリントが足らないと進行係か慌てた。最終的に男子二十一名、女子二十八名、計四十九名だった。

これは、二重の意味で予想外だった。前記両組織を挙げても二十五歳までの青年はそうはいない。この大部分はいわゆるノンセクトの若者であった。それに遊び場開放で「こういうことをやりたかった」という言葉が、学習の面でも同じことが言えたということだった。彼らは現代の風潮に浸るだけでなく、やはり自己の生きる道を真剣に待望し求めていたのではあるまいか。

だがこの教室は始まったばかりである。物診しさが手伝っているかも知れない。学習回数を不足とする声も満ちたが、青年に対する我々の認識がき憂だったかどうかはこれからである。

 

ぼくもガッツな料理作ろう

ぼくもガッツな料理作ろう

 

 

 


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