教育福島0008号(1976年(S51)01月)-025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

めぐりあい

 

中山寿保

 

巡り巡って出合うこと  かいこう。触れ会いの意味を巡り合いとして、断片的ながら考えてみたい。

人間社会の期本的なしくみは、すべて人と人との巡り合いによって始まり概念的にも、具体的にも、すべて巡り合い、触れ合うことによって結ばれていく。家族、友人、師弟、読書すべてが巡り合いであり、人間関係の基本となっており、人間生成上のあらゆる条件がそこにある。愛、相こく、闘争、憎悪、背信等々、そこで人の心はみがかれ、鍛えられ、愛の予盾を知り、孤独の何たるかを知り、沈黙の意義を覚える。

学校は子供にとって、家庭に次ぐ最初の激しい巡り合いの場所である。多彩な触れ合いによって、自我を意識し訓練され、選ばれ、傷ついて、個々の限界さえも知らせられる、厳しい場所である。教育というものは、人が人を傷つけなければ生きられないことを、まず見せつける。

友情は常に競り合うことを条件としている。好敵手は最高の親友であり、しっとし、憎悪し、せん望しながらもなお求めてやまない。友情は孤独の意味を教えてくれる。敵の不在は人間の不在であり、無関心に比べれば、むしろ愛の変形と言えるかも知れない。子供たちに、本当の生きる意味を教えてくれるのは、家族でも教師でもなく、土にまみれ、泣きぬれても立ち向かって触れ合わないではいられない、緊迫した友情ではあるまいか。

教育はメルヘンではない。童話的な判断や発想は危険である。童話の世界では悪役的な、非情で残酷な行為が、医学を進歩させる大切な要素となることもある。貧乏で心やさしい者が、いつも正直で正しく社会に役だつとは限らない。かように多種多様な個性が私たちの生存を支えている。

人間社会には、神のような正しい評価など、初めからありはしない。これは長い間教師を勤めて痛感することである。一人の人間が他の人間を理解することは、至難なことであるにもかかわらず、教師は短時間に多くの決定を迫られる。一つの決断は一つの受難となって、私の心を重くする。理解とはまず人を愛してみなければわからないことだし、理解よりも誤解が先立って本当の理解など一生かけてもとうていなし得ないことかも知れない。

「個人の格差をなくそう」ということが、もし人間の平均化を意味するならば、これは個人の尊厳を否定することであろう。この世の中には、だれがしなくても、だれかがしなけれはならないこと、だれがしても、やってはならないことがある。自分にやれないことでも他の人がやれて、人がやれないことでも自分にはやれる、これが人間の誇りというものであろう。

しかることをしないのは、無関心か無気力である。本当にほめてやるためには姿勢を正して当たりたい。ほめ上手な教師になるために、しかり上手な教師になりたい。それが私の願いである。偉さだけが教えではない。悲しさや、弱さや、みじめさを通しても、彼らに人生を教えることはできる。少くとも捨身で人間の弱さに立ち向う勇気を持って、彼らの純真ないたわりにこたえたい。

道に迷えば道を覚える。意識するしないにかかわらず、触れ合えば傷つけ傷ついてしまう。それでもなお触れ合わずにはいられない。人間の「生」のすばらしさに感動しないではいられない。差別することなく、けんおすることなく、よしんば誤解することはあっても、一期一会の心で接していきたい。

先ごろ「精密機械材料」を出版したとき、終始励ましてくださった恩師0先生の名言「本を書くことは恥をかくことである」を借りて、とりとめのない文の結びとすることをおゆるし願いたい。

(県立会津工業高等学校教諭)

 

教育随想

ふれあい

 

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。