教育福島0008号(1976年(S51)01月)-026page

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教育随想

ふれあい

分校の子らとともに

 

分校の子らとともに

角田 優

 

南会津から転勤し、,当分校に着任したのが昭和四十三年四月であった。当時児童数は、一年から六年までの三十五名、二個学年三学級編制であったα私は、五・六年複式を担任することになった。七年前のことである。

いよいよ子供たちとの学校生活が始まったが、楽しいはずの毎日の学習指導は意外に難しく、数日で厚い壁に突き当たってしまった。へき地独特の傾向だが、発表力がなく、また学習への取り組み方にも張りがなく、意欲が感じられない。この子供たちにはどのような指導が必要とされるだろうかと、毎日の学習の場で、また子供たちの帰った一人ぼっちの教室で、あれこれと考えたが、いい知恵は浮かばなかった。

家庭訪問もしてみたが、核心に触れることは見いだせなかった。

五月になり、黒かった山膚は目の覚めるような新緑へと衣替えをし、山菜取りの最盛期を迎えた。文化生活には恵まれていないが、すばらしい大自然がある。ひとつ、観察学習を通しての学習への意欲、つけはできないものかと理科の時間に野外の観察に出かけた。分校から二百メートルほど行くと、道路わきの畑にタンポポが一面に咲いていた。子供たちはうさぎのように跳びはねながら、われ先にとタンポポを摘み、「先生」と、集ってきた。教室で学習している子供たちとは、まるで別人のようであった。葉の形、根の張り方、花びらの数まで調べてノートに取り、他の草まで図鑑で調べ名前も覚えた。本当に楽しそうだった。これはうまくいくかも知れないと、暗いやみの中に一筋の光を見いだした思いだった。

翌朝、早速Kの手にムラサキケマンが握られていた。「先生、これなんという花ですか」。そう聞かれたとき、自分で調べてごらんと言おうと思ったがせっかく聞いてくれたのだからと思いその場で教えてやった。きれいなので取ってきたと、採取した場所まで教えてくれた。本当にうれしかった。野辺に吹く花を見て感動し、未知なものを知ろうとする探求の心を確めることができた。それからは、ぼくの机の上に毎日のように、いろんな植物がのっているようになった。それらの植物は子供たちとともに調べ、標本にし、教室に展示した。たちまち教室がいっぱいになり、子供たちは活気に満ち、毎日の学習が楽しくなった。

六月初めのプランクトン採集と観察学習は、更に大成功だった。検鏡の後ミジンコとケンミジンコを写真に撮り大きく引き伸ばして教室にはった。

このように観察学習を通して、子供たちとの心の交流が深まり、分校に勤務してよかったと、心からの喜びを持つことができるようになった。それは分校の裏山が色づき始めた十月の中旬だった。

それがきっかけとなり、昭和四十四年度は、子供たちとともに学習した実験観察の記録と、自作教具の利用を現職教育研究物展示会に出品した。続いて、四十五年度は、季節によって変わる太陽の高度と通り道の継続観察をした。四十六年度は、新しく加えられた栄養素の働き(ニワトリの卵)の観察に取り組み、卵の重さの変化、はいの成長観察を行った。六月二十八日のふ卵開始から七月十八日のふ化までの二十一日間は、子供たちとともに、新しい世界を求める観察の毎日だった。卵かくを破って出てきたヒヨコと、そのときの子供たちの歓喜に満ちた顔は、今でも忘れることができない。

四十七年度は、身近なところがら、カビの学習、四十八年度は、植物の作りと働き、四十九年度は、気象の観測五年間のまとめを、それぞれ展示会に出品してきた。

昨年の気象観測のまとめでは、四十六年度の冷夏暖冬、四十八年度の豪雪という異常気象の中で、子供たちは、自然の驚異と、自然と生活の関連など身近な科学を学んできた。

今年度もまた、イネの継続観察に取り組んできたが「先生、先生」と、子供たちから声をかけられている。

ひたすらに子供たちの変容する姿を求めて歩んできた七年の歳月は、ぼく自身をも理科好きにしてしまった。

これからも、ある面では恵まれないへき地の子供たちとともに、精いっぱい生きていきたいと思っている。

(大沼郡三島町立宮下小学校教諭)

 

 

 


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