教育福島0008号(1976年(S51)01月)-027page
一日の生活の中から
田中 薫
一日の学校生活がスタートする。今日もいい日でありますように、と祈りながら校門をくぐると、登校を急ぐ生徒たちから元気な朝のあいさつが聞こえてくる。「先生、おはようございます」ただそれだけのコミュニケーションと視線の触れ合いであるが、実に気持ちがいい。返す言葉にも気合いが入る。今日もいい日が始まるような気がする。
本校では、生徒会が中心となって「オアシス運動」を推進しているが、実によくあいさつができるようになった。本校の自慢の一つである。校内にあいさつがこだまし、心が響き合う一時である。一日の生徒との触れ合いは、この朝のあいさつに始まるようである。
小黒板に「誕生日、おめでとう。S君」の赤文字が目をひく。今日は彼の日なのである。「一人の喜びはみんなの喜び」をモットーにみんなで祝福する。「おめでとう」と握手を求め、誕生会の祝辞を考える。今日は彼の長所を思い切りほめてやろう……。盛りだくさんの。プログラムの中で心が触れ合い、熱い感動の一時が流れる……。日直による万歳三唱と記念撮影で幕を閉じた。次の喜びごとが待ち遠しい。
楽しみの一つに「私の一言」がある。これは、あるテーマについて原稿用紙二枚に考えをまとめ、毎日二人ずつ発表し合う心の広場である。四月以来、「私の家族」「こんな人になりたい」「自分自身について」などを終え、現在、「私の好きな言葉」に取り組んでいる。不完全な表現、とつとつとした話しぶりの中にも、それぞれの個性的な考え方がにじみ出ており、ふだん触れることができない心の奥をのぞいた思いで感動を覚える。まさに「文は人なり」である。他の生徒も友の発表に真剣な表情で耳を傾ける。きっと、そこでは静かな心の触れ合いが行われているからであろう。
道徳の時間である。事前に資料を読んでノートにまとめた感想を基に、徹底的に話し合う場である。ここでは、一人の人間として互いに本音を出し合い、既存の道徳を確めていく。かっとうの場では、個性的な心がさまざまな言葉や表情となって表現される。主人公の生き方に対して、賞賛するもの、批判するもの、また、弁護的な立場をとるものなど、まさに社会の縮図である。どの立場も容認した上で自由なふんい気の中で対決させる。
それぞれの言い分が交錯する過程の中で同じ意見に共感したり、違った考え方に心が固く閉ざしたりする。あっという間に時は流れ、感想をノートにまとめて、提出する。数編がみんなに紹介される。話し合いとノートを通して教師と生徒、そして、生徒どうしが激しく心をぶっつけ合う。これが、またなんとも言えない触れ合いの喜びである。
ノートに「きまりを破ることに生きがいを感じる」と書いたS子。家庭では親と断絶状態、学校でも孤独で、長欠の前歴を持つ生徒である。なにかに飢え、なにかを求めているのだろう。寂しそうな彼女の心の内が痛く感じられた。さっそく、呼んで話し合ってみた。話題は身近なものから発展し、きまりのことに及んだ。話がはずみ、時のたつのを忘れた。そのとき、進んで話す彼女の顔が、別人のように明るく輝くのを見て、私は、彼女との心の触れ会いを感じた。
思えば、堅い表情で心を閉ざし、拒否反応を示す彼女にはずいぶん手を焼いてきた。ある面では、まさに問題児であった。しかし、辛抱強く触れ合いを求めているうちに、ついに彼女の心が動いたのである。欠席はほとんどなくなり、仕事も誠意をもってやり遂げ一部の学友とも話すようになった。それでも、まだ暗い影がっきまとう。K先生が授業中の様子を報告してくれた。明るく、素直に反応し、真剣に製作に取り組んでいるという。ありがたいことである。今後も他の先生がたとともに積極的に協力し、S子のよい面をはぐくみ、育てていきたいと思った。
明日もまた多くの生徒が向上を願い触れ合いを求めて登校してくるだろう。その生徒たちに確実に知識、技能を教えると同時に、教育活動のあらゆる分野に積極的に触れ合いの場を設け、彼らの人間的成長に役だつことができるる−−そんな教師でありたいと願っている。
(福島市立野田中学校教諭)
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