教育福島0008号(1976年(S51)01月)-029page

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教え子とのつながり

 

佐膝 精雄

 

「秋色いよいよ濃くなって参りましたが、いかがお過ごしでしょうか。早速ですが、先生にお願いがあります。私たち一月にクラス会を予定しておりますが、その記念として文集を作成したいと思います。(清流第二号)つきましては、私たちへの呼びかけ、思い出などお願い致します。勝手なお願いで申しわけありませんが、よろしくお願い致します……。私は今、家で農業をしています、落ち着く所に落ち着いたということでしょうか。先生にはいろいろと心配していただきまして、ありがとうございました。これからは、好きな事を農業に取り入れていこうと思っています……」

K君からの便りである。

十年前、教師になって初めての卒業生を出した。そのときの記念誌「清流」は、ガリ版刷りの一人一文集と版画集を合本したものであった。

学校は古い木造校舎で、校庭は三角形をしていた。 (今は新築移転され鉄筋コンクリート建ての近代校舎になり校庭も広くなったが……)

私は無我夢中だった。授業中に窓に腰掛ける子供や席を立って歩き回る子供におろおろし、つつじの花をむしり取って食べる子供を見てはびっくりしたりした。

しかし、子供たちはすばらしい力を持っていた。秋には毎年、全校登山が行われた。一週間ほど前に、六年生と先生たちで下刈りをして道を開き、危険な所にはロープをかけた。当日、六年生は一年生とともに登った。山すそを登る列は、ずっと数百メートルにもなった。

学校の前方にはA山がある。朝な夕な眺める山であった。

「思い出にA山に登ろう」ということになり、K君やS君たち、その兄さんたちと登山することになった。山道のないささやぶの中をまっすぐに進み、三時間ほどかかり、やっと頂上に着いた。

「ここまで来ると山はないぞ!」とS君が言った。なるほど、山はない青い空が広がり山々はみな眼下にあった。

N君の父は必ず参観日には来校した。ある日、こんなことを言われた。

「先生は、子供の家のことはよく知らねがら、馬力かけて教えられつけど、おれならば、あそごの子はこうだとわかっていっから、全力ださねがもしらねな」

こうした子供と親さんから、発想の転換の大事さを学んだ。

子供たちが卒業するに当たって編集したのが「清流」だった。子供たちの作文は、ほぼ原文のまま原紙に切った。年を経て黄色くなったざら紙の記念紙を見ていくと、あのときの子供たちの姿がはっきり思い浮かぶ。たどたどしい言葉の運びも、にじんだ版画インクにも、そのころの子供の姿をとどめている。

編集後記に、

「農業はどうなるだろうか。家庭はこれでいいのだろうか。この土地と人情をみつめている目は、たとえ幼いものであっても、すっきりと中心をとらえています。みなさんの持っている優れた心と力をどうか大人になっても持ち続けてください……。この生命ある限り、真なるもの、善なるもの、美しきものを求めていこうではありませんか」

と書いた私の言葉は、実際の場でどのような力になったろうか。K君に農業を継ごうと決意させたものは何であったろうか。私の心配などは無力であったろう。

だが、「清流」は、子供たちの心の中をかれずに流れ続け、第二号が生まれようとしている。文集という小さな仕事が、教え子とのつながりを確かなものにしたのだ。

教師の仕事や姿が、子供たちの生き方にどのような影響を及ぼすか、計り知れないことを痛感するとともに、ますます教師としての責務の重大さを感じている。

(田村郡滝根町立滝根小学校教諭)

 

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