教育福島0008号(1976年(S51)01月)-031page

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Y子の声

目黒 セツ

 

秋の日ざしがまぶしく部屋を染めた日、長かった孤独との戦いからやっと心を開き、明るい声を出せるようになったY子……。私はこの子を終生忘れることができないであろう。

Y子との出合いは昨年の九月。来春入学なのに「人の話は聞き分けるのに自分からは話さないし、笑顔もあまりない子なのです」と教育相談に訪れた母と子。名医を訪ね、数回にわたり指導を受けたが、出産時の外部脳打撲のための失語症と言われてからの家族中のあせりは濃かったという。「本当に話せないのだろうか。どのようにしたら話せるようになるのだろうか」とすがってきた日のことが思い出される。そのときのY子の目は冷たく、なにを聞いても無表情で、おどおどした感じだった。兄弟は兄と、Y子と一つ違いの双子の妹の四人であり、兄弟間でもY子は話せない子、なにもわからない子として相手にされない状態だった。母もあせりはあったが、Y子の幼児期の大事なときに、双子の育児に追われY子に愛情を注いでやるのが不十分であったと話していた。

「Y子を今救わねば……なんとかして話せるようにしてやりたい」と思いY子との週一回の面接が始った。入学に備えての準備のために、教育相談という指導法をとり、母や妹たちといっしょに通うことになった。最初は母のそばから離れようとせず、妹たちの遊びを見ているだけだった。私がそばに行くと、体をこわばらせて警戒心を強めるばかりだった。そこでまず、Y子が興味を示すものを見つけて指導に結びつけることと、緊張や警戒心を取り除いてやることに気を配った。Y子が興味を示したのは積み木遊びだった。高く積んだり、こわしたりしながら声をかけたが、いつも私の独り言で終わるようだった。私は「力に余る仕事を引き受けたのではないだろうか。もし失敗したらどうなるだろう」と考える日さえあった。だがそんなとき、校庭のけやきの大木を仰いでは新たな夢と希望と勇気を奮い起こし、小さな一人の人間に対して辛抱強く大きな愛で接する決意を新たにしたのである。

入学と同時に、週二回の指導時間に変え、構音障害グループの中に入れてみた。級友とともに通級できることと当初は遊ぎ療法中心なので自由なふんい気があったためか、警戒心もだんだんと少なくなり、傍観的だった目に動きと光が見られるようになった。五月に入ってから発音指導のときは、Y子を私のそばに置き、緊張させないためにもスキンシップを忘れなかった。

六月十九日 アオウの口型指導をしていたときに、Y子が私のまねをして口を動かしているのに気づいた。声は出ていないが、それだけでもうれしかった。

二十六日 アオウの声がかすかに聞こえた。私といっしょに練習をさせると、低い声だが聞き取れた。常に励ましながら指導をした。なんとなくY子が穏やかな顔になったのもそのころである。

七月十七日 一学期最後の日、私といっしょにだ.が、アオウ、カコク、サセソなど、口型が丸くなるものだけは声を出せた。口も大きく開くようになった。友達の中に入って遊べるようになった。

九月に入って黒板に絵をかいたり、名前を書いたりしていた。発音練習でも、私の後についてアイウエオと一語ずつ切って言えるようになった。声には自信はないようだが、私の円型をよく見る目と心が育ってきた。

十一月十一日 子供たちと、上から読んでも下から読んでも、同じ言葉になるものを言って遊んでいた。Y子も目を輝かして「もも」と言った。初めて一人で発した声だった。みんなにほめられると、今度は私の示したカードの文字を声を出して一字一字読んだ。舌がもつれるような、のどにつかえるような声だったが、たしかにY子の声だった。「先生さようなら」という声を聞いたのも、この日が最初だった。

十一月十七日 Y子の練習している様子を録音することができた。マイクを見てもためらいもせず、私の後について五十音を全部言うことができ、ママ、パパ、雨、足、朝など、二語音まで言えるようになった。三語音からはやや不明瞭になるので、これからの課題だろう。録音を再生して、Y子ちゃんの声だよ、と言って聞かせたときのあの顔……自信に満ち、喜びがあふれていた。言葉は心から……私はしみじみと味わった。

(原町市立原町第一小学校教諭)

 

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