教育福島0057号(1980年(S55)12月)-025page
随想
ひたすらに
長谷川寿子
「先生は 何組の先生?」
「キョウトウ先生だよ」と女の子。
「だから 何組の先生?」
一年生の補欠授業、もうそろそろ終わりの時刻である。
「先生わね。今、自分の組がないのよ」
「へえー。先生は学級先生の方がいいな!」
なるほど、私は、学級担任の方がいいと一年生は言っている。私は、この子供たちの無邪気な会話にすっかり感心し、つい目もとがほころんだ。
今春からその席につくことになった教頭職、まだまだ身につかず、一年生にまで学級先生の匂いをかぎつけられてしまった。いや、一年生だからこそ鋭く感じとったのかも知れない。でも私は、その稚い“学級先生”という呼び名に担任の先生を信頼しきっているやすらぎと、なんともいえない温かみを感じて胸が熱くなった。
そう、この子供たちは、受け持ちの先生を信じきっている。この子供たちは、教室の椅子に座った瞬間から、全てを先生に委ねている。先生の望むところ、どんなことでも健気についてくる。先生が指示すれば、少しぐらいあきてきてもがまんする。
「さあ、本を読もうね」
「ハーイ」
「大きな声で歌いましょう」
「ハーイ」
なんと素晴らしいことだろう。なんと恐しいことだろう。そこには、先生の姿勢が、鏡のように子供たちの姿に映し出されていく。前向きは前向きに。後ろ向きは、後ろ向きに…。
今の子供たちは、どんな時に心の底から緊張するのだろう。何に向かい合った時、自分の力を出しきるのだろう。どんなことに会った時、みずみずしい感動に包まれるのだろう。溢(あふ)れる物質文明の中で、自分たちの幸せも不幸も気づかないでいるのではないか。自然への語りかけも、自分への問いかけも忘れてしまっているのではないか。こんなことをとりとめもなく考えていた私は、ふと、このことはわたしたち教師にもあてはまるところがあるのではないかという思いにとらえられた。子供の頭脳は、大体四〜六歳で大人と同じくらいに完成されてくるという。それでは教師と児童とは頭脳的に同程度か。否、全く違う、そこには、何ものにも替え難い経験の差がある。完成度は同じでも、この経験の差が大変重要な意味を持つように思う。つまり子供の頭脳とは、経験という材料が入ってないコンピューターと同じで、いくらコンピューター自体が完成されていても、判定材料が入っていないのでは作動しない。いくら質問をしても判定材料不足ではいい解答は返ってこない。子供たちにとってこの世の中は未経験、初経験のことばかり。子供たちが一人前の大人になるまでには何と多くの関門をくぐりぬけなければならないことか。それを思うと、私はまず自らに問いかけずにはいられない。
“今、子供たちに何をしてあげなければならないか”“していることは、本当にそれでいいのか”“いい授業を創り出すための努力を怠ってはいないか”と。
自分の体力や気力とだけ相談するのではなく、子供たちの目の輝き、学ぶ心を大切にした教育活動をこつこつと続けたい。どんな時でも、何歳になっても、みずみずしい子供たちの前にはみずみずしくありたい。常に大きな温かさを内に秘めていたい。求める心の前には、より深く求める心を持ち続けたい。ただ、ひたすらに。
(福島市立福島第三小学校教頭)
みずみずしい子供たち