教育福島0057号(1980年(S55)12月)-030page
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は筆者等自身であった。『授業を常時公開制』にすることは指導者自身の常識や人格などを白日の下にさらし評価されると考えたり、指導案で行動目標、授業仮説、下位行動目標と授業実践における下位目標ごとの教師の評価と生徒の形成的評価の分析。事前テスト、事後テスト、把持テストと、その分析といった追求に耐えられないと思ったが筆者らグループはそれを乗りこえた。そして生徒達の学習意欲の変容が「図5」に示すように表れた。いかに教師が生徒達に信頼を矢なっていたかがわかるような気がするのである。生徒の自主性といって放っておいたために本物の自主性を置き忘れていたように思えるし、さらに理科だけの実践の影響は、他教科の学習にも波及し、学力の増大に結びついたものと考えている。
資料 現3年生の教育課程(理科)
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図1 学習の意義についての認識
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図2 個別化をめざした授業の学習意欲診断ダイアグラム
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三 反省と今後への課題
授業研究による反省の中から主なものを述べよう。
(1) 生徒の学習に対する感受性は豊かなのに、我々にはこれが欠乏している。
(2) 落ちこぼれを生徒の能力と勤勉さの不足に求めて授業の真の低さにあることを認めたがらない。
(3) 授業への集中力を求めても教師がきびしく授業を組織しなければ集中してくれない。
(4) 発問は授業を進めるための手段ではない。生徒の表面に表われない内面を診断するためであり、その発言を十分吟味することにより学習が組織化できる。
(5) 習熟度に応じた学習指導は差別にはつながらない。
形式的な画一化は落ちこぼしを大量に作り出し、教材の選択などでは解決がつかなくなる。
生徒が持ち合せの知識の多少を競
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