教育福島0057号(1980年(S55)12月)-032page

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わたしの研究実践

 

生徒サイドの道徳授業の試み

猪苗代町立猪苗代中学校教諭

室井文輔

 

一 はじめに

道徳の授業は、生徒たちがよりよく生きようとする願望に対して、その手がかりを与え、生きる力、生きる喜び、生きることの意義を感じとらせていく時間であると考える。

しかし、今までの道徳の授業は、ともすると教師の指導性が強すぎて、教師があらかじめ用意した発問にすんなり答えさせ、どう動かせるかといった指導に傾いていたきらいがあったように反省しているものである。

そこで、生徒と教師が話題を出し合い、共に語り合い、納得して実践に結びつくような授業、すなわち「生徒サイドに立った授業の展開」の大切さを感じ、本研究に取り組んでみた。

 

二 研究実践の概要

(一) ねらい

個人的な感情をのりこえて、クラスや集団のために、自己の役割りを果たそうとする態度を養う。

(二) 資料「レクリエーション係」(学研「わたしたちの道徳」二年)

(三) あらすじ

楽しい学級をつくるために、自分の希望でひとり一役以上ひきうけてほしいと先生に言われ、主人公は、一年生の経験を生かしてレク係になろうとしたが、思うように事が運ばなかった。それでも自分は、レク係として推せんされたことから、学級のためつくそうと努めたが、友達関係でつまづいてしまう。レク係としての役割りを忘れてしまい、自分本位の考えで、しかも感情をむき出しにして行動してしまう。そんなとき森のことばにはっとするのである。

(四) ねらいの設定における配慮

主人公が、集団と個人、個人と個人とのかかわりあいがどうなっているかを考えることが大切である。資料「レクリエーション係」の主人公山口の場合は、集団と個の関与である。個人としては、係をやりたいしやらなければならないといった責任感のつよい性格の持ち主でありながらも、不測の条件のもとにおかれたために、それをのりこえるだけの自信がなかったわけで、学級全体のことを考えると、いたたまれない状態になってしまっている。したがってねらいとして、ひとつひとつに自己の真実をこめ、より高い目標にむかいつつ、実現させようと努力している。

自分本位の考えや感情で行動していることに気づかせ、集団の一員としての自覚と理想の実現をめざして、自己の生き方への新しい発見をさせていく態度を育てていかなければならない。

(五) 資料の選定と効果的な活用

道徳の授業の中で、生徒とともに何をしていかなければならないかを考えたとき、道徳では、人間の心を扱い、究極は、「生きる力」「生きる喜び」「生きることの意義」を感じとらせていく時間であるから、そういう意味で資料の使い方を十分に吟味しなければならない。資料は、人間の生き方の一つの話題と考えておきたい。いいかえれば、人間の生き方について語り合っていくための話題である。だから、資料の中に存在している人の生き方はどうなのかをつかみ、そこを話し合いの柱としていかなければならない。そのためにも、教師による事前の資料分析が大切であり、十分になされていなければ従来の指導観念に陥ってしまう。生徒たちの目もそこに向けられるような、教師の資料渡しが極めて重要性をもってくる。生徒たちが話し合いをしたいところ(話題)を出し合い、生徒サイドによる授業の展開が、要求されてくる。そうなってはじめて、生徒たちは自分自身の問題として積極的に話し合い、自己を省み、自己の生き方を探求できるものである。

道徳の時間で、資料の中の主人公の生き方に共感し、納得し、感動しそれを自己の生きる手がかりにしていくときの、こういう時間こそ、道徳の時間であり、生徒のよろこびであり、教師の生きがいであろうと思うのである。そして、常に生徒たちの意識の中に入っていって、生徒たちとともに共感できるような授業にこころがけ表のような取り組みを試みたのである。

(六) 論理性・功利性・連帯性

論理性とは、つじつまの欲求のことで、人間は、自分のやることにつじつ

 

 

 


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