教育福島0060号(1981年(S56)04月)-028page

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随想

 

先生と先生

尾形茂夫

 

る。世間から先生と呼ばれるこの二つの職業には随分と似通った面がある。

 

一般に先生といえば、学校の教師のことであるが、お医者さんも患者さんから先生と呼ばれる。題名の「先生と先生」は、教師と医師という意味である。世間から先生と呼ばれるこの二つの職業には随分と似通った面がある。

ともに高学歴の職業である。大学卒のあと県や国の行う厳しい資格試験に合格しないとこの職業につけない。また、教師は聖職者、医師は、医は仁術と呼ばれるように、極めて高い道徳律と人格を要求されてきた職業である。

ところが、世の中が民主主義という権利と義務を基盤とした考えかたに変わり、権威を認めない時代になって、教師はサラリーマン化し、医師は算術化したとマスコミからいじめられる職業になってきた。国民の九〇パ−セントが中流を意識している現状では、これまで先生といわれてきた一握りの指導的立場にあった職業は、どうにも目ざわりな職業に映るようになってきたらしい。

最近、医療がむずかしくなったという話が医師会でかわされる。そのむずかしさというのは技術が進歩したという医療内容に関することよりも、治療の結果が思わしくない結末になった時に、その責任を追求する権利意識の強さに辞易するからである。

このごろ防衛医療という新造語がある。診断名を断言しない。必ず治りますとは決していわない。予後の悪い重症のものはなるべく大病院に移送して手をくださないなどのことで、たえず言い逃れを考えて治療に当たるというのである。結果が悪ければ、必ずそこに過失が存在するという前提に立ってマスコミが論じ、裁判においてすら、その世論に左右されかねない現状を考えると、消極的・防衛的にならざるを得ないというのである。教育の現場において、このようなことがなければ幸いである。

最近新聞を読んでいると、医療について最新の知見にかかわる記事が、詳細に報道されている。編集局長の話によると読者が強い関心をもっており、よく読まれる記事なのだという。例えば発癌に関する研究の論文などは、ある特定の条件のもとでは有意の差で発癌の可能性があるかも知れないという最新の論文までも掲載されるので、焼き魚の黒くなったところを食べると癌になると信じこんで、煮魚しか食べないという人がおり、私などびっくりさせられるのである。

医療に関しても教育に関しても、世間の人々が皆それぞれの見解をもっており、情報の入手にはこと欠かない時代であるから、先生たるものは、専門職としてその分野においては正しい新しい知識を身につける努力をしなければならないのはもちろんであるが、そもそも教育・医療は人間の信頼の関係の上に成立していると思うのである。教師が生徒から、医師が患者から信頼されなければ、教育も医療も存在しないのである。

医療が進歩したといわれながら、漢方ブームを呼んでいる。漢方には漢方のよさがあるが、西洋科学である現代の医学が、科学ですべてが割り切れると考えて病気を診て病人を診ないことに対する拒否反応なのではないかと思う。

人間相互の信頼関係は、まず、先生が、相手がなにを求めているのかを理解することから始まるのではなかろうか。その求めているものを専門職として助言・教導して与えてゆく過程に信頼のつながりが芽ばえてくるものと思う。

人を教えることのできるのは人であり、人を治すことのできるのも人であると思う。原則的にはそうであっても先生の納得のゆく教育・医療を行うには、文部省や厚生省からのカリキュラムとか医療保険などに関するわずらわしい拘束が多過ぎるきらいがある。ゆとりある時間がほしいのは「先生と先生」自身なのではなかろうか。

(福島県学校保健協会学校医部会長・医師)

 

 

 

 

 

 


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