教育福島0067号(1981年(S56)12月)-027page

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随想

 

オラホのセンセェ

渡辺晋一

ホノセンセイダ!!」この時、なんとかこの子たちの期待に応えねばと思った。

 

三月二十六日、原町合同庁舎で辞令の交付を受けた。勤務校は双葉郡川内村立川内第一小学校であった。四月だというのに職員室には、まだストーブが入っていた。この土地で最初に出会った子供に、「オラホノセンセェ?」とフイに尋ねられた。その子は五年生だった。私が、教室の入り口に立った時、男の子二十四人、女の子九人の目が私に集中した。「ホラミロ、ヤッパリ、オラホノセンセイダ!!」この時、なんとかこの子たちの期待に応えねばと思った。

川内村は福島県の浜通り中部、阿武隈山地のほぼ中央部に位置している。人口が四千ほどの山村である。この村の山は、五十五年の年末に降った大雪で育ち盛りの杉の木が折られるなどの大きな被害を被ってしまった。四月末になっても山間には、まだその雪が残っていた。大学は、まさしく学生生活最後を飾る楽園であったが、立場を変え、今、その現場に立った時、デューイもペスタロッチも一瞬のうちに消しとんでしまった。

その最初の精神的ショックは、現場教育の場においてであった。本校は、教育目標の具現化を図るため、三年も前から、文章を正しく読みとらせるためには、どう指導すればよいか、という国語力をねらった指導を研究主題として取り組んでいた。このことについて、私はなんの研究もしていなかったし、なんの考えも持ち合わせていなかった。加えて、私が採用になったこの年は、新教育課程が完全実施となって二年目を迎えていたのだった。現場の厳しさをここであらためて痛感させられた。

二つ目は、四月末から実施した家庭訪問でのことであった。 「現代の子供は、思い通り行かなかったりすると、すぐにカッとなってしまう子供が多くなってきてしまっているようだが、自分の感情を抑制しコントロールできる子供、自分の意見が通らなかった時には、しばらく我慢して時機を待ち自分の意見を練り直すことのできる、そんな柔軟な心を持った子供を育ててゆきたい」とか、また、「やる気について神経生理学者はこんなことを言っている」などと、しかつめらしく話したのであった。

本来なら家庭訪問というのは、教師が聞き役に回り、学校では聞き出せない地域のことや子供のことについて知り、更に子供の理解を深めるべき機会であるはずなのに、堅苦しい話をして子供を理解する大事な機会を失ってしまっていたのであった。しまったと、思っている時に、茶うけにと差し出された葉山葵の漬物は、涙が出るほど辛かったのを思い出す。そこでまた自分の脇甲斐無さに落胆させられたのである。

本校は、全校児童が百八十九人というへき地校である。どんな行事をするにも全員で取り組み、みんながみんな責任のある役割について仕事をしていた。

運動会などは、地域全体での行事となった。子供たちは、それらの仕事をしながらお互いに助け合い、互いの良さを認め合っていた。へき地教育が無いものねだりや泣きごとであってはいけないということをこの時の子供たちの姿から教えられた。

今回の新学習指導要領の改訂の柱となった、「人間性豊かな児童生徒の育成」、「ゆとりある、しかも充実した学校生活」、「国民として必要とされる基礎的、基本的な内容を重視するとともに、児童生徒の個性や能力に応じた教育が行われるようにすること」なども、とりもなおさず小規模校で小人数のこの学校でこそできるものではないのかと、あらためて感じさせられたのである。

ここは確かに、自然条件や生活条件、社会的条件が厳しいところであるが、ここには、これらの条件をも克服できるだけのものがある。ここには素朴な文化と伝統がいきづいており、自然から多くのことを学ぶことができる。そのうえ、心と心とのふれ合いがある。そしてなによりもまして、子供たちがたくましいのである。

二年目こそは、もっとしっかりとこの土地で子供たちの信頼を得て、目を見開き、視点を一層高くして、教育の諸問題と取り組んでゆきたい。

 

(川内村立川内第一小学校教諭)

 

 

 


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